視線の檻 part2 【見られているのは、あなたか、それとも……】
前回の話↓↓
第3章: 見られている
「見られている」。その言葉が脳裏を何度もよぎるようになったのは、いつからだっただろう。窓の外に浮かぶ影や、部屋に漂う重たい空気。それらがただの思い込みであってほしいと願う反面、私の中の恐怖は静かに確信へと変わりつつあった。
それでも日常生活は続けなければならない。この日、私は気分を変えるために外に出ることにした。リビングの窓をカーテンで覆い隠し、見たくない景色を断ち切るように外出の準備を進める。だが、靴を履こうとしたとき、ふと背後に視線を感じた。
振り返っても、そこには誰もいない。けれど、その感覚は確かだった。
マンションのエレベーターで1階に降りる途中、私は自分の顔を鏡に映してぼんやりと眺めていた。昨夜はほとんど眠れなかったせいか、顔色は青白く、目の下には隈ができている。こんな顔を徹に見せたくないと思う反面、私自身の不安を隠しきれないようにも思えた。
「もっと気楽にならなきゃ……ただの勘違い、疲れのせいだ」
小さく呟いた言葉が、エレベーターの冷たい空間に響いた。自分の声なのに、どこか他人事のような響きがして、さらに不安が膨らむ。
エレベーターが1階に着き、ドアがゆっくりと開いた。私は深呼吸をして歩き出そうとしたが、足が一瞬止まった。
エントランスの奥、観葉植物の陰――そこに何かがいる。いや、「いる」としか思えなかった。
目を凝らしても、そこにはただの植物と白い壁があるだけだ。けれど、その場所からじっと見つめられている感覚はどうしても消えなかった。
「こんにちは」
突然の声に、私は飛び上がりそうになった。振り返ると、50代くらいの女性が立っていた。短めの黒髪で、品のあるワンピースを着ている。彼女の柔らかな微笑みが一瞬安心感を与えたが、その目の奥に何か妙な鋭さが宿っているのに気づいて、背筋がぞくりとした。
「あ、こんにちは……」
反射的に返事をしたものの、声が震えていたのが自分でもわかった。
「ごめんなさい、驚かせちゃったわね。私は隣の部屋に住んでいる藤田和枝です。最近引っ越してきたのよね? よろしくね」
藤田さん――隣人だ。彼女の笑顔は親切そうだったが、どこか押し付けがましい印象もあった。彼女の視線がじっと私の顔を見つめ、少しずつ下がっていき、全身をまるで品定めするように観察しているのがわかった。
「村上沙織です。こちらこそよろしくお願いします」
私はぎこちなく微笑んで返事をした。けれど、彼女の目が私を離さない。その視線に晒されているだけで、体中がこわばるような気がした。
「新婚さんよね? 旦那さん、きっと沙織さんが自慢でしょうね」
彼女の言葉には悪意は感じられなかった。それどころか、褒めるような口調だった。だが、その一言が私の中に小さな棘のようなものを残した。
「……ありがとうございます」
それ以上何を言っていいかわからなかった。彼女の視線は笑顔のまま、私を刺し続けているように感じられたからだ。
帰宅後、私はソファに座り込んだ。買い物で外に出れば気分が晴れると思ったのに、重たい疲労感が体中にのしかかっていた。部屋の中の空気がまた一段と重く感じられる。
「大丈夫、大丈夫……」
私は自分に言い聞かせた。けれど、その言葉は空虚で、自分にすら届いていなかった。
そのとき、ふとカーテンの隙間から光が差し込んでいることに気づいた。気にしないようにと目を逸らそうとしたが、そこに視線が吸い寄せられる。
――何かがいる。
私は手のひらに汗をかいているのを感じながら、カーテンの隙間に手を伸ばした。恐る恐る隙間を広げ、外を覗き込む。
何もいない。ただ、風に揺れる木の影が窓ガラスに映っているだけだ。それなのに、心臓が激しく脈打ち、全身に鳥肌が立つ。
私は急いでカーテンを閉め、窓に背を向けた。それでも、窓の向こうから何かがこちらを見ているような感覚が消えなかった。
夜、徹が帰宅したとき、私はリビングの窓の前で立ち尽くしていた。彼の声にも気づかず、窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめていた。
「沙織? どうしたんだよ。大丈夫か?」
徹が心配そうに肩に手を置いた瞬間、私は我に返った。
「あ……ごめん、ちょっとぼーっとしてただけ」
笑顔を作りながら返事をしたが、その声は自分でもひどくぎこちなく聞こえた。
その夜、私はまたあの音を聞いた。
廊下の奥から聞こえる、床を擦るような音。昨夜と同じだ。私は布団の中で息を潜めた。
音は少しずつ近づいてきた。そして、寝室のドアの前で止まった。
私の耳には、恐ろしい静寂だけが響いていた。
第4章: 内側の影
目が覚めた瞬間、体中に重りを載せられたような倦怠感に包まれていた。朝日がカーテン越しに差し込んでいるはずなのに、その光はどこか薄暗く、部屋全体を濁らせているように感じられる。昨夜の記憶がじっとりと頭にこびりついて離れない。
――廊下を歩く音。そして、寝室の前で止まる気配。
誰もいるはずがないとわかっている。それでも確かに、そこに「何か」がいた。音が止まった瞬間の静寂が、耳元でいまだにざわめいている気がする。
「沙織、大丈夫か?」
徹の声が遠くから聞こえてきた。キッチンで朝食を準備しているようだった。いつも通りの声、いつも通りの朝の光景――それなのに、私はその「普通さ」に違和感を覚えていた。
彼の言葉に答えようと口を開くが、声が出ない。ただ、自分の中の不安が塊になって喉を塞いでいるようだった。
「沙織?」
再び名前を呼ばれたとき、ようやく私は体を起こし、小さな声で答えた。
「……うん、大丈夫。ただ、少し疲れてるみたい」
言葉は口から出たが、自分のものではないような感覚だった。徹は気づかないふりをしたのか、優しい笑顔を向けてくれた。
「今日は無理しないで、ゆっくり休んでていいからな」
その笑顔に私は頷いたものの、胸の奥で何かがぽきりと折れる音が聞こえた気がした。彼には何も見えていない。私の中に渦巻いているこの恐怖も、昨夜の音も、すべて「ないもの」として扱われている。それがたまらなく心細かった。
リビングに移動すると、またしても違和感が襲ってきた。テーブルの上に置いたはずの雑誌が、昨夜と微妙に位置を変えている。それがほんの数センチの違いだったとしても、私にとっては恐怖の象徴だった。
「……どうして……?」
呟いた声が、部屋の静けさに吸い込まれる。動かしたのは徹なのだろうか? それとも、私自身が忘れているだけ? どちらにしても、答えは出ない。
私は雑誌を手に取り、テーブルの端に置き直した。その行為はまるで自分を安心させるための儀式のようだった。だが、雑誌を置いたその瞬間、背中に視線を感じた。
振り返る。そこには、カーテンで覆われた窓があるだけだ。
――それなのに、誰かが私を見ている。
この感覚は初めてではなかった。窓の外から、あるいはこの部屋のどこかから。目に見えない何かが、私をじっと見つめている。
外に出ることにした。部屋にいると、どんどん自分が壊れていきそうな気がした。
マンションのエレベーターに乗り込むと、私はまた鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺めた。肌は青白く、目の周りには隈ができている。顔は浮腫み、口角が下がっている。まるで、別人のようだった。
「疲れてるだけ、疲れてるだけ……」
そう自分に言い聞かせるが、声がやけに他人事のように響く。鏡の中の私は、その言葉に失笑しているように見えた。
エレベーターが1階に着き、ドアが開いた。足を踏み出そうとした瞬間、背後に視線を感じた。
振り返ると、誰もいない。ただ、防犯カメラの赤いランプが静かに点滅しているだけだ。それでも、私は見られている気がしてならなかった。
帰宅すると、エントランスでまた藤田さんと鉢合わせした。
「こんにちは、沙織さん。お買い物? 新婚生活って大変でしょう?」
彼女の声は親しげだったが、その親切さがどこか嘘くさく感じられた。彼女の目は笑っていない。私を観察するようにじっと見つめている。
「まあ……少しずつ慣れています」
私はぎこちない笑顔を浮かべるしかなかった。それでも彼女の視線は、私の表情を突き抜けて心の奥まで覗き込んでいるようだった。
「沙織さん、気をつけてね。このマンション、ちょっと変わったところがあるから」
その言葉が刺さった。
「変わったところ……?」
聞き返そうとしたが、エレベーターが到着する音がして、私は反射的に逃げ込んだ。ドアが閉まるまでの数秒間、彼女の視線がずっと私を追ってきていた。
その夜、また音が聞こえた。
「カサッ……」
昨夜と同じ音。廊下の床を擦るような足音が、寝室のドアの前で止まる。
暗闇の中で私は目を開けることができなかった。何かがそこにいる。確信だけが胸を締め付ける。
目を閉じたまま、耳だけが音の行方を探っていた。
――何も聞こえない。それが何より怖かった。
音が消えた後の静寂は、むしろその「何か」がより近くにいることを物語っていた。布団の中で縮こまりながら、私はただ朝を待った。
翌朝、リビングの窓際に立った私は、ぼんやりと外を見ていた。窓ガラスに映る私の顔は、さらに色を失っている。街は平和そのものに見える。けれど、その平和の中に私はいない気がした。
――私は、この部屋に囚われている。