リハビリテーションが不要となる未来を考える
人類は長い歴史をかけて様々な面での進化を遂げてきました。
身体の構造や機能としては、四足歩行から二足歩行に進化したことが大きいでしょう。これは不安定な身体を制御して安定を得ることを必要とし、予測機構の発達に大きく寄与したと考えられます。
人類の進化は身体面のみならず、認知面においても目覚ましい発達を遂げました。特に、抽象的な思考や概念の発達は今日の人間社会や文化を形成する根底にあるものです。
抽象的な思考や概念は、多くの人間の間で共通認識を持つことで、多くの文化を形成してきました。
例えば、言語なんかもそうです。単語の意味を共有していなければ、それは抽象的概念の伝達には役立ちません。
ユヴァル・ノア・ハラリは、人間が作り出した様々な概念のうち、「最強の征服者」として貨幣を次のように表現しています。
タカラガイの貝殻もドルも私たちが共有する想像の中でしか価値を持っていない。その価値は、貝殻や紙の化学構造や色、形には本来備わっていない。つまり、貨幣は物質的現実ではなく、心理的概念なのだ。
(中略)したがって、貨幣は相互信頼の制度であり、しかも、ただの相互信頼の制度ではない。これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ。
(ユヴァル・ノア・ハラリ著,柴田裕之訳:サピエンス全史(上) -文明の構造と人類の幸福, pp223-224, 2016)
人間の文化を形成する概念の多くは、人間が勝手に作り出した幻想によって支えられています。
今回は『リハビリテーション』という概念も人間が作り出した幻想として捉え、そこで何が起きているのか、その根本に何があるのかを考えてみたいと思います。
この記事を読むと、
●人間の想像力のたくましさを再確認できる
●人間の文化がいかに幻想によって支えられているかがわかる
●リハビリテーションという概念すらも幻想であることがわかる
人間のたくましい想像力
冒頭で書いてきたように、人類はその認知機能を発達させる中で、様々な抽象的概念を作り上げてきました。
人間の文化というものは、そこに共通認識がなければ機能しません。
日本語は日本語を理解できる個体(多くの場合は日本人)の間でしか機能せず、例えば英語圏の多くの個体に対しては概念や意思の伝達として役立ちません。
上で引用した貨幣は国によって異なる通貨が用いられていますが、それぞれの貨幣の価値について共通認識(常に変動するレート)があるため、通過が異なっても国を跨いで機能することができます。
こういったものは全て、人間が人間同士の取り決めとして作り上げたものであり、人間以外の動物にとっては意味不明でしょう。
「猫に小判」「豚に真珠」なんて言いますが、このことを端的に表していると言えます。
つまり、人間が文化や社会を成り立たせるために取り決めた決まり事の多くは、本質的な意味を持たず、相互信頼や相互理解、共通認識に基づいてのみ成立する幻想に過ぎないと言えるのです。
動物もしくは人間の価値とは?
動物もしくは人間の価値って何なのでしょうか。
犬や猫のようなペットを例に考えてみましょう。
ペットには生産性はありません。
「ここ掘れワンワン」なんて小判の埋まっている場所を教えてくれる犬なんて、ごく一部でしょう。
では、なぜ人間はペットを飼うのでしょうか?
おそらく、存在自体に意味もしくは価値があるからではないでしょうか。
犬や猫が嫌いな人にとってはそんな意味や価値はないかもしれませんが、犬や猫が好きな人にとっては非常に大きな意味や価値があるはずです。だからペットを飼うのです。
それでは、人間の価値とは何なのでしょうか?
人間に価値がなければ、そこに権利は生じないのでしょうか?
人間の生産性とは何でしょう?生産性のない人間の価値とは何でしょう?
ケガをしたり病気になったら、人間の価値や権利は失われてしまうのでしょうか?
リハビリテーションという幻想
そもそも、リハビリテーションという用語は何なのでしょうか。
リハビリテーション(rehabilitation)という用語は、re(再び)とhabilis(適する)というラテン語を組み合わせたことから派生した語であり、そもそもはキリスト教における「名誉の回復」を意味しました。
そこから転じて、奪われた権利や尊厳を取り戻すことを『リハビリテーション』と言うようになったようです。
日本語では、『リハビリテーション』=『全人的復権』と訳されるのもここから来ている訳ですね。
では、繰り返しになりますが、ケガや病気を負った人は、権利や尊厳が失われるのでしょうか?
我々理学療法士やリハビリテーション専門職と言われる職業(資格を持つ人)は『リハビリテーション』と称して機能回復や生活への復帰を目指した介入を行いますが、それによって権利や尊厳を取り戻すことになるのでしょうか?
進行性疾患を患ってしまった方は、もう権利や尊厳を取り戻すことはできないのでしょうか?
そう考えていくと、『リハビリテーション』という概念自体がおかしいこと、矛盾していることに気付きます。
結局のところ、人間が勝手に作り出した幻想(おそらく資本主義)に基づき、ケガや病気を負って生産性を失った人間は偏見によって権利や尊厳が奪われるからそれを取り戻さなければならないという更なる幻想が生み出された結果、このおかしな概念が生まれたのではないでしょうか。
リハビリテーションすべきなのは社会の方
リハビリテーションが必要になるのは、人間が作り出した幻想が文化の根底にあるからです。
二本足で歩かなければならない。
文字を読み書きして勉強できなければならない。
言葉が話せなければならない。
働いてお金を稼がなければならない。
こんなの全て、人間以外の動物はやりませんよね。
いわゆる『障害』というものは、全て社会や環境の側に原因があるはずです。
二本足で歩けないことに偏見がある社会。
二本足で歩くことにしか適合できていない環境。
文字を通してしか勉強できない教育のシステム。
言語でしか意思伝達ができない社会。
働いて金銭を稼がなければ生活していけない社会(この点、日本はマシですが)。
考えてもみてください。道路が完全にフラットならば、二足歩行じゃなくても車椅子で全く問題ないはずです。
そんな社会環境において、二足歩行ができないことは『障害』になるのでしょうか?
これからの理学療法士は何をすべきなのか
もしも社会が劇的に変化して、『障害』というものがなくなったとしたら、『リハビリテーション』も要らなくなるかもしれません。
そうなったとき、理学療法士やその他のリハビリテーション関連職種は職を失うのでしょうか?やることがなくなってしまうのでしょうか?
私見ですが、それはないと考えていて、今のこの時点でも『障害』だけにフォーカスしていることが問題ではないかとすら考えています。
歩けないのは『障害』だから歩けるように練習をする。これが普通の『リハビリテーション』の考え方なのかもしれませんが、これ、要らなくないですか?
歩けなくても社会環境さえ整備すれば、それは『障害』じゃなくなるのですから。
となったときに、「じゃあ歩かなくて良いや」となるのでしょうか?
そう考える方もいると思いますが、「それでも歩きたいわい」と言う方もいると思います。
それは『全人的復権』ではなく、『自己実現』という(マズロー的に)より高次の欲求です。
テレワークが一般的になり、歩いて職場に行くということは急速に必要なくなってきました。
テクノロジーによって社会環境が変化し、少しずつですが障害に対する偏見も減り、今後はさらに『障害』というものは減っていくでしょう。
「AIに仕事を奪われる」みたいなことを言って悲観している理学療法士も多いようですが、そんなことはないと考えています。
AIなどのテクノロジーが発展することで不要な仕事に割く時間が減り、次の段階に進むことができるだけなのではないでしょうか。
まとめ
『リハビリテーション』という概念についてマジメに考えてみました。
なかなかの暴論を繰り広げてきたので、不快に思われた方からはお叱りを受けるかもしれません。
しかし、『リハビリテーション』というものが人間が作り出した幻想に過ぎないという考えは間違っていないはずです。そもそもキリスト教の概念から発生している訳ですし。
これまで『リハビリテーション』というものを追求してきた我々の職種ですが、この先はテクノロジーの発展によって『障害』がなくなり、『リハビリテーション』が不要となる世の中が来るかもしれません。
個人的にはそれを望んでいます。
その世の中が私の生きているうち・働けるうちに到来するのかはわかりませんが、『リハビリテーション』=『全人的復権』じゃなく『自己実現』に関われる仕事ができるとしたら、それは素晴らしいことではないでしょうか。
より深く学びたい方へ
サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福
冒頭で引用した書籍です。
人類の進化の歴史を追いながら、人類が次々と生み出してきた概念(虚構などと表現)について書かれています。
リハビリテーションとは直接関係ありませんが、人類の思考の歴史を知る上で非常に興味深い書籍です。
※上下巻に分かれている書籍なので、購入の際はご注意ください。