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【備忘録】演劇を「続ける」から「やめない」という考え方へのシフト


 どうやって身を立てていくかというよりも、どうやって続けていくか。これは演劇人にとっての死活問題である。有名になるためには、公演を。公演をするには、お金を。お金を集めるには、バイトを。バイトをするには、時間を。というような行きはよいよい、帰りは怖いのリアル通りゃんせが演劇で食っていきたいという者たちには待ち受けているのである。彼らは往々にして芸術学校で専門家からしっかりとしたメソッドを学び、実践に活かしながら、経験を積んでいく。しかし芸術学校を卒業できても、それで飯が食えると確約されるわけではない。演劇家として身を立てようとした瞬間に、ハードな人生設計を強いられるのも事実である。そんな罪深いところもわたしは好きなのだが、それは今はおいて置こう。そこでわたしはそんな演劇ドロップアウターを少しでも減らすためにひとつの提案をしたいと思う。

 まず前提として、日本の文化芸術の土壌を確認したい。日本の芸術文化は欧米の芸術文化とは明らかに異なる。結論から言うと、欧米は学問文化、日本はお稽古文化である。

日本は明治以降、海外のさまざまなものが入ってきた。この文明開化によって日本が成長していったことは歴史的な事実なのだが、わたしはそこに日本の文化的な隔たりができてしまったように思う。その隔たりこそが欧米の学問文化と日本のお稽古文化だと考える。

 お稽古文化とはしっかりと言語化された技術体系と言うよりも、「息遣いを覚える」というような感覚的なものである。例えば落語家に弟子入りしたとき、最初は師匠の身の回りのお世話ばかりさせられるという。それは師匠のそばにずっと付きっきりになって、師匠の息遣いを覚えるためだ。そういった感覚的なものを体に染み込ませたうえで、少しずつ芸事の訓練をしていくのだ。また歌舞伎も親から子どもへと一子相伝の技術として伝えられる。

 アルコールがどんな化合物か知らなくても、お酒を味わうのに少しも差し支えはないでしょう。

わたしの好きな作家さんのひとり、星新一先生の言葉である。これはわたしの考えるお稽古文化と極めて近い感覚だと思っている。専門学校に行くと言語化された学問体系として演劇を学ぶが、本来はそのような専門学校はなく、師匠の背中を見よう見まねでで修得していくのが日本的な形である。

 本題に入ろう。演劇は続けることが非常に難しい。そもそも芸術学校の学費が高いとか、進学するうえでの両親の説得とか、卒業しても己の才覚のみに頼らなければいけないとか、芸術では飯は食えないとかいろいろなことがある。

 ここでわたしの提案だ。演劇を「続ける」から「やめない」へと考え方をシフトする。続ける、続けないの場合、芸術学校へ入る、入らないや就職する、しないというような二元論的な議論になることは想像に難くない。しかしそのような意思決定が、本当に正しいことなのかどうかは現在の時点では決して判断ができない。将来にはさまざまな不確定要素があり、その後の人生において、自ら下した選択への満足や後悔は結果論に過ぎない。したがって演劇を続けるか続けないかという選択は、その人の人生においてかなり重要な位置を占めているはずなのに、意思決定をするリソースが全くないのである。

そこで、ここに「やめない」という選択肢を追加してみよう。すると―言葉の綾と言われればそれまでだが―続ける、続けないという白黒の二分法の間に、グレーゾーンができるのがお分かりになるだろう。このグレーゾーンこそが、前述した「お稽古文化」の正体なのだ。ドラマ『半沢直樹』で直樹の妻、花が通っていた華道教室のようなイメージである。母親になっても娘とともにピアノを弾くイメージである。父親が学生時代にバイト代で買ったギターを休日に引っ張り出して、自室で弾いてるという、あのイメージである。休み時間になったら自由帳に漫画を描いて、みんなを笑わせていた奴がいただろう。文化祭のとき「アイツ、ギター弾けたんだ」と驚きと羨望の眼差しで向けられた奴がいただろう。それと同じように演劇を続けていくのである。

 つまり趣味のような感覚で演劇を続けるという選択肢である。しかしそれが演劇は難しいのである。仕事との両立。家庭との両立。大前提としての生活との両立。それらを両立できなければ、たとえ趣味だとしても「舞台をつくる」という長い期間を通して行われるものに参加することはできないだろう。

 ではどうすればいいのか?

 わたしは、そのために組合をつくらねばいけないと考えている。

 組合というと、なんだか労働組合に連想されるような堅苦しいものだと思われるかもしれないが、そうではない。いわばクリエイター集団である。ここには役者、技術スタッフ、作家といった演劇家だけでなく、イラストレーターや映像編集が得意な人、ミュージシャン、また―これが結構重要なのであるが―観る専、すなわち観劇することが好きな人も含めた、大きな組織を編成することが必要だと思っている。例えるならば、ある芸能プロダクションが事務所総出で映画を制作するようなイメージだ。

 これによって何が可能となるのか?

 継続的にそして流動的に演劇活動が可能となるである。例えば役者の場合、Aさんが出られなくとも、他の役者さんが大量にその組合に所属しているのである。Aさんが出られないからといって、公演がとまるわけではない。そしてそのAさんはできる限りのことをすればいいのである。

 ここまで読んで、普通の劇団と何も変わらないじゃないかと思ったかもしれない。しかしこのわたしが提案する芸術組合(いまは仮にこう呼ぶ)の本領はまだ発揮されていない。この芸術組合の最大の武器は―観客をも所属組合員に取り込んだ―規模と他分野とのメディアミックスが可能な点である。なぜなら、公演の集客はその上演団体の規模と直結するからである。特に四季や宝塚というような商業劇団ではない、われわれアマチュアにとっては、劇団の規模こそが集客力を決めると言っても差し支えないだろう。

 想像してみてほしい。あなたの娘さんがピアノの発表会に出るとする。あなたはほぼ確実に、予定を空けてでも観にいくだろう。そしてビデオに我が子の頑張りを録画するだろう。想像してみてほしい。あなたの友人のいとこがピアノの発表会に出るとする。あなたはそれに行くだろうか?興味があれば行くかもしれないが、自分の娘が出るときと比べれば、熱量は下がっているだろう。

 アマチュアの発表会や大会の集客とはこういうものなのである。つまり先程の例の場合、ピアノというよりも、知っている人が出ているという方が興味を持ってもらいやすのだ。演劇とて同じことである。高校演劇部の自主公演やコンクールに足を運ぶと一目瞭然である。観客はその部員たちの家族、友人、そして部の先輩たちでほとんどが占められている。近しい関係の人たちがやる公演には行こうと思う。しかし知らない人がやっている公演にはそもそも観にいこうとも思わない。たとえその人の趣味が観劇であっても

 ここまで説明すれば、段々と分かってくるだろう。公演自体に関わる人が多ければ、自然と観客は来てくれるのである。友人が舞台に立つ。息子が脚本を書いている。娘が作った音楽が劇中に使われている。わたしの好きなイラストレーターが舞台美術や広告に関わっている。充分に観劇する動機が作られるはずだ。そしてその動機はただ観劇が趣味であるというものよりも強い。だって好きな人が関わっているから。

 わたしは「ずっと真夜中でいいのに。」さんが好きなのだが、その方たちが主題歌を歌っている映画は観に行きたくなる。(なので最近、『約束のネバーランド』がとても気になっている)。映画『キングダム』やアニメ『鬼滅の刃』が大ヒットした後、原作の売り上げが伸びたのは、このような理由があるからだろう。人気の俳優さんや声優さんが出演しているから観るという層が増えた。

 本当はこの芸術組合になぜ観る専を所属させるかとかどうやって公演企画を組むのかなど、まだまだ書かねばならないことは多いのだが、長くなってしまったので、それらは次回へ譲り、本稿は一度ここで終わろうと思う。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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