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わたしにとって劇団ってなんだろう?


 先日、とあるスペースに参加したときの話題について考えてみようと思う。そこでは「劇団っていったいどういうものなんだろうか」という、なんとも抽象的な話題について話していた。しかし、抽象的であるがゆえに、この問い自体がいろいろな方向へ展開可能であることを示唆していた。
 劇団ってなんだろう? これはいったい何について問われているのか。劇団のあり方だろうか、劇団の運営の仕方だろうか、それとも人間関係にフォーカスしたものだろうか。人によってさまざまな捉え方がある、ということだけが確からしい。誰かが「劇団はかくあるべし」と言うと、必ずと言っていいほど「それもひとつ答えだ。いろんな答えがあって良い」と返される。わたしは、演劇を始めて6年目になったが、この手の返答がじつは少し苦手だ。それはわたしの何でも白黒つけたがる性格に由来するものなのは、明らかなのだが、それでもなお、むず痒くなる自分がいる。もちろん、表現の自由や芸術の多様性は保証されるべきだし、芸術に限らず、現代は多様性の時代だ。「多様性を受け入れよう」と言うのは、わたしたちをユートピアに連れていってくれるような、そんな淡い期待を持たせてくれる言葉である。しかし、目指している場所がホントウにユートピアかどうかは常に目を光らせるべきではないか。多様性は個人に個人としての自律をお互いに認め、尊重しあうことだが、一方でそれは道を誤ると、孤立化の道を辿ってしまうのではないか。
 いったい、なんの話をしているのだと思われた方もいるだろう。わたしは劇団のとある形にユートピアの縮図を見ているのである。それは市民劇団という形である。同じ地域に住む、同じ趣味を持つ人たちで運営される芸術共同体の最小単位。〈芸術組合〉と言ってもいいかもしれない。演者も音響も照明も衣装もメイクも大道具も制作も演出も脚本家も、そして観客もすべて市民によって構成されている組合、それがわたしの劇団のあるべき姿なのだ。だから、現在わたしが主宰をしている劇団は、同郷の人間で構成されていて、理想への第一歩であるという感触はたしかなものなのだ。

 しかし、劇団を一年運営して、ユートピアへの道はなかなかに険しいことにも気が付いた。以前、演劇を「続ける」から演劇を「やめない」へのシフトが大事で、わたしは自身もそうしていきたいということを書いた。白黒つけたがるわたしにとって、この考えは革命的であった。グレーゾーンを許す、あえて否定の表現を使って、やんわりと肯定する。「続ける」という言葉は、現在から未来へと一直線に持続するイメージを喚起する。それは少しでも止まること、横道に逸れること、脱線することを許さない強情なものとなる。しかし「やめない」は、止まればまた走り出し、横道に逸れれば戻ってきて、脱線すれば修理してゆっくり走ればいいのである。しかし、この方法はある程度の人数が確保されないと劇団の場合は機能しないということがこの一年間で分かったことだ。止まる人たちを補ってくれる人がいないといけなった。少し考えれば分かることだったが、当時のわたしは劇団をつくるという高熱に浮かされ、それはもう鉄の馬のように走り回っているだけで、そこに気付く余裕がなかった。
    今の演劇は観客にとって日帰り旅行になっている。わたしは演劇を作り手や観客にとっての文化祭にしたい。観客にとって観劇は一日かけて、それなりに大きなお金を使う一大イベントになりつつある。チケット代はいくらか、場所はどこか、交通費はいくらか、開演時間はいつか、どの電車に乗ればいいか、終演後はどこでご飯を食べるか、何を着て行こうか、家に帰るのはいつかなどなど。前もって予定を立てて観劇に来てくれる人はもちろんそのままでいいのだが、そのうえでもっと手軽に、たまたま来たらB級グルメのイベントをやっていたから入ってみよう、みたいな人たちを増やしたい。演劇を「せっかくだし入ってみようよ」と言われるような、イベントにしたい。そのためには、その地域に根付いたものであること、作り手が楽しそうにしていること、つまり、ボトムアップの形になっていることが大切なのではないだろうか。観客に楽しい思い出をつくってほしいのであれば、まず作り手が一番楽しい思いをしなければいけない。

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