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勝手に報われろ/忘れ者の日記6

勝手に報われろ。

わたしは自分にそう言い放った。

こんな気持ちになったのはホントウに久しぶりだ。日記を書く書くと言いながら、全然書いていなかったのだけれど、今日のことは忘れてはいけないような気がしたから、文字に残しておこうと思う。

演劇部を引退して6年目に入ろうとしているのだけれど、わたしはずっと部活の話をしている気がする。多分あと10年経ったても、そうなんだろう。部活のこと以外に話すことをほとんど持ち合わせていないということも確かにあるのだけれど、それだけあの場所に、新しく、綺麗になって、今となっては見る影もなくなってしまった耐震性能の低い講堂に、つまりは自分の当時の記憶に、ある意味で縛りつけられているからだろう。クサい言葉を使うのであれば、「青春」というものは常に過去にしか存在せず、「青春している」などという現在形はありえないんだ。だから、今がどれだけ楽しいものであっても、それは当時の代理でも、埋め合わせでもなく、ただ「今の経験」にしかなりえない。このように、つらつらと御託を並べているけれど、結局のところ、過去に引きずられていくことに対抗する形で未来の方向へと歩いていかなくてはいけない。

これまで何度も辞めたいーー「忘れたい」ーーと思った演劇だったけれど、ひとまず「辞めなくて」よかった。足を洗うタイミングは常にあった。手持ちのカードには常に「演劇と手を切る」があった。

どうして、こんな犯罪めいた言葉づかいで演劇のことを書くのだろう。演劇を辞めないことは悪いことなの? 答えは「はい」なんだろう。少なくとも、わたしは親からそのようなことを言外に教えられてきた。

でもどこかのタイミングで演劇を辞めていれば、今日はなかっただろうし、今日がなければ、今後だってない。イヤ、わたしだけがいないまま、今日という日を向かえたのだろう、その可能性の方がずっと高い。

何年も前から、演劇を「辞めない」ということだけを心に決めて、時に一人で黙々と、時に仲間と粛々と、自分の「演劇」に取り組んできたという自負はある。でも、自負しか持ち合わせていない。一人で戯曲を書いたり、部活OBとして参加したり、仲間とグループを組んだりしたけれど、いずれの道も舞台までは果てしなく遠かった。わたしがまだ現役生だった頃、「すべての道は舞台に通ず」と言っていた人たちがいたのだけれど、道が続いてることと辿り着けることはまったく別問題なんだ。おそらく、あの人たちにとっての舞台に続くすべての道というのは、教室から部室までの距離しかない。そして、当時のわたしにとっても同じことだった。なんと恵まれた環境だったんだろう!

方向が合ってるかも分からない。もはや情熱もほとんどないかもしれない。こっから、何か新しいことが始まるかもしれないとワクワクできるほど、純新無垢な子供でもなくなった。

でも、ちゃんとやらないといけないと思った。やるべき事やって、勢いでそのまま転がって、勝手に報われろ。

2024年4月27日

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