見出し画像

【エッセイ】脚本か、小説か、あるいは別の「何か」か

 「コレはなに?」
最近、書きあがった作品を読み返すと必ず思うことがある。
「コレはなに?  脚本?  小説?」

 わたしはこれまでずっと会話劇を書いてきた。だから、当たり前だけど、作品はキャラクターたちの会話が中心。だけど、最近ちょっと思うことがあって、作品の中心が会話からト書に移行しつつある。

 というのも、わたしが書く作品は「演劇脚本」と銘打っているわりにファンタジーがすぎて舞台に適してないんじゃないかと思うことがあったから。まあ、それを「どう表現するか」が演劇のおもしろいところでもあるんだけどね。でもそれを考えるのは「演出家」の仕事だよね。わたしはあくまでも「脚本家」だもん、なんて言ってたこともあった。

 だけど、せっかくファンタジーを書くんだからそれにあった文章表現を突き詰めたいと思った。この文章表現を突き詰めることは、言ってみれば、自分で「演出家」を兼ねること。すると、ほとんどなかったト書がだんだん増えてきた。――ト書がない時代の作品はマガジン『電脳天使 18-22』にあるよ——最初は「〜」を台詞、(〜)を主人公の思考として書いていた。あくまでも「脚本」として。でも、コレはめっちゃ読みにくことに気づいた。あと、わたしが会話劇で大切にしていたこと、「余白」がまったく無いことに気づいた。とても窮屈な文章になっていた。

 だから、主人公の思考の流れを書くのはやめた。その代わりに書くようになったのが、主人公の視線の流れ。コレはなかなかよかった。主人公が何を見て「そういう台詞」を言っているのかが、わかるようになったからね。「余白」を残しつつ、思考の流れが結構見えるようになったと思うんだ。わたしはこれを「一人称カメラ」と呼んでる。

 一人称カメラだけじゃ足りないから、三人称カメラ―—いわゆる、「神様視点」だね――も使う。この二つのカメラを使いこなすと、かなり細かい行動をト書にすることができる。でも、三人称カメラにも分からないことはある。神様は三人称カメラを覗けても、キャラクターの心は覗けない。神様にも分からないことがあるんだね。

 すると、次の課題が出てきた。キャラクターの心を通して見るのが一人称カメラだとすると、そのキャラクターの心自体を見るにはどうしたらいいんだろう、と思った。一人称カメラはあくまでも「類推」の域を出ないし。
そのとき思いついたのが「情景描写」。悲しいときには雨を降らせましょ、みたいなやつ。自分で自分の作品の説明をするのは変な感じがするけど、実は「情景描写」っぽいものは会話劇を書いている頃からずっとやってる。キャラクターはありきたりな会話を繰り広げているけれど、その作品に出てくる設定や道具に意味を持たせてある。その意味が分かると作品の解釈が変わる、みたいなものを書くのが好き。だからその延長で、脚本にも細かく「情景描写」を書き込むという案はわりと自然に辿り着いた。
 多分、もうキャラクターに「君が好きだ」なんて月並みな台詞は言わせない。もしそういうシーンが出てきたら、ト書で「綺麗な満月が二人を照らしていた」と書くと思う。いや、もちろん、台詞の方が良いときはちゃんと伝えるよ。
 でも、今みたいな感じで全部の背景が情景に変わっていくような作品を書いていきたいんだ。モチーフの氾濫、バロック時代の絵画のようにさりげなく、だけど意味ありげにト書を描き込んでいきたい。

 でも、ここまでくると「小説」と何が違うのだろうという気もしてくる。かといってわたしの書いている作品を「小説」と紹介するのは――いま連載中の『光の速さで生きて』は「小説」と銘打っているけれど――少し気が引ける。だって、わたしの書く作品にはあんまり感情とか思考は書き込まないようにしてるから。もし書くとしたら情景として融けこませたい。だけど「脚本」と紹介するのも何か違うような気がする。理由ははっきりしないけど、多分、わたしが自分なりの文章表現を色々と試した結果、「脚本らしさ」みたいなものが無くなったんだと思う。だから、始めに書いたように「コレはなに? 脚本? 小説?」となってしまった。

 わたしが書く「脚本」は「何の脚本」か分からない。そういう意味では「脚本」ですらないのかもしれない。でも、いつか舞台作品になったり映像化したりしてほしいな、と思いながら書いている。わたしが目指しているのは、絵画の象徴表現と映画のカット割りを「劇文学」に調和させること。そうしたら、おそらく、ファンタジーに自分の表現が追い付くはずなんだ。

 みんなには、わたし独特の文章形式、あるいは文章表現だと思って読んでもらえると嬉しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?