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「当事者による表象」でホントウに当事者は救われるのか

はじめに

大前提として、わたしは「マジョリティ」とか「マイノリティ」という言葉が嫌いです。なぜならばこの言葉は「多数派」「少数派」という意味であり、人間の多様性を二元論に落とし込み、消し去る言葉だからです。しかし、この備忘録を書くきっかけとなったツイートしている松崎氏が「マジョリティ」と「マイノリティ」という言葉使っていたので、今回はそれに合わせて言葉を使います。

 わたしとって松崎氏の意見は以前から気になるものでした。ですので、今回はわたしなりの意見を書かせていただきます。

すべての作品がそうではないこと

 松崎氏の基本的な主張をおさらいしておきます。まず、彼はハリウッドの映画製作の現場で物語を作る際に、マイノリティが差別や偏見に基づいたイメージで描かれていることを指摘しています。そしてそれは日本も例外ではない、むしろ日本は「マイノリティが差別や偏見に基づいたイメージで描かれていること」にすら気付かない点でハリウッドよりもおかしいと言うわけです。

 そして「マイノリティが差別や偏見に基づいたイメージで描かれていること」で、マイノリティの実生活にもその差別が及ぶ。だからそのような映画製作はやめようと言うわけです。
 かなりまっとうな主張です。ではその差別や偏見とは何を指して言っているのでしょうか。

わたしは『ゴールデンカムイ』を読んだことはないので、内容について触れることはできません。読んだことはがない人にとっては「はあ、なるほど。そんな差別的描写があるのか」というふうに感じてしまいます。

 つまり彼は作品内で発生しているマイノリティへの差別や偏見を助長しないように、実写化する場合はその当事者の役者を連れてくることが良いと言っています。つまり『ゴールデンカムイ』を実写化するのであれば、アイヌの方を起用しようと言うわけです。人種・セクシュアリティ・障害などさまざまなマイノリティ的な属性がありますが、そういった人々は当事者に演じさせるべきだということです。

 しかしながら、ホントウに差別や偏見を助長する作品ばかりかと言われると疑問です。わたしは片方の耳が聞こえませんが、NHKが放送していた連続テレビ小説『半分青い』の楡野鈴愛が差別や偏見を助長する人物だとは思えませんでした。むしろ片方だけ耳が聴こえない人は(程度によるとも思いますが)基本的に障碍者手帳を持てなかったように記憶しています。つまり健常者の扱いを社会から受けますが、鈴愛は他の人から名前を呼ばれてもどの方向から呼ばれているのか分からないし、呼んだ人を探してキョロキョロしているところを笑われるシーンもあります。わたしは非常にリアルに描いていると思います。全く同じ経験をわたしは何度もしています。わたしは、楡野鈴愛を演じていた永野芽郁さんは、片耳が聴こえない当事者ではないですが、『半分青い』はそういった方の存在を知らせる良いきっかけになったと考えています。

大事なのは「正しいイメージ」ではなく「正しい知識」

 松崎氏のツイート読むと「誤ったイメージ」という言葉が頻繁に出てきます。しかし「誤ったイメージ」とはいったい何でしょうか? わたしは以前から彼のツイートを追っていましたが、わたしの読解力の無さ故か、彼の言う「誤ったイメージ」に対して適切なイメージを持てませんでした。読者の皆様にはその上で読んでいただきたいです。

 「誤ったイメージ」がどんなものであるかは置いておいて、「誤ったイメージ」が差別や偏見を助長する可能性があるがあることは否定しません。なぜなら、それは「誤ったイメージ」だからです。しかしながら「誤ったイメージ」があるということは「正しいイメージ」もまた存在するということにはなりはしないでしょうか? わたしはこの「正しいイメージ」が分からないために、「誤ったイメージ」も分からなくなってしまったのです。
 おそらくですが、「誤ったイメージ」というのは言葉のチョイスが少し悪いように思います。そこには「正しいイメージ」があると誘導してしまうからです。おそらくイメージに誤りも正しいもありません。もっと言うのであれば、イメージは根本的に誤っていると言う方が適切でしょう。

 わたしはこの結論に至ったとき、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』を思い出しました。この作品に当時のユダヤ人差別が書きこまれているという話は有名だと思います。つまり、人種・セクシュアリティ・障害などを理由に、個人の個別性や人格性を奪ってしまうようなイメージ、これが松崎氏の言う「誤ったイメージ」なのだと思います。そして「当事者による表象」を行えばマイノリティへの差別や偏見は無くなる。なぜならば、当事者が演技をすれば「誤ったイメージ」にはならないからだ、と続けます。

 しかし「当事者による表象」でホントウにマイノリティに対しての偏見や差別が生まれないのかというと、わたしは非常に疑問です。偏見や差別を無くすために、必要なのはマイノリティについての「正しい知識」を得ることではないでしょうか。「正しい知識」を得ることで、「誤ったイメージ」を植え付けるような作品は自然淘汰されていくのではないでしょうか。むしろドラマ(あえてドラマと言わせていただく)製作をする過程で「マジョリティ」に属する役者たちは「マイノリティ」の苦悩を引き受け、それを発信することはできないでしょうか。
 今回のこの記事を書くきっかけとなった松崎氏はハリウッドで役者をされている方だ。わたしは映画製作に関わったことはないが、脚本家の端くれとして、演劇の立場からわたしなりの提案をしたい。以下の「演劇」はという言葉は「ドラマ」に置き換えてもらって差し支えない。

演劇は(あくまでざっくりと)以下のような過程で作られていく。

1登場人物の思考の流れを読み取る。
2そこから出てくる感情を想像する。
3その人物になりきる。

 つまり、演劇とは自分ではない誰かの考え方や感情について徹底的に向き合う営みであるとも言えます。そして演じる際に役者にもっとも求められるのは、その人物の言動に対しての納得です。つまり役者がキャラクターにとって一番の理解者になる必要があります。これは「考え方の違い」や「思いやり」そして「多様性」について学ぶきっかけになりえませんか?
 わたしが「当事者による表象」に感じている疑問は以下の3点です。演技することをきっかけにして「マジョリティ」が「マイノリティ」の「生きづらさ」を知ることは許されないのか。許されないのだとしたら、「マジョリティ」に属するわたしたちは、いつ、どうやって「マイノリティ」の「生きづらさ」に知ることができるのか。また「マイノリティ」はいつ、どうやって「生きづらさ」を理解してもらえるのか。

追記

 わたしはノンバイナリーで片耳が聴こえないだけの、「マイノリティ」にはギリギリ含まれていない(と勝手に思っている、というか思われたくない)人間です。仮にわたしが「マイノリティ」側の人間だとするならば、わたしはノンバイナリー男性と片耳が聴こえない男性の役を与えられることでしょう。「演じる楽しさ」という浅はかな理由で「マイノリティ」への偏見を助長するなという意見は理解できます。でも、それは明らかな差別表現のみにしてほしいです。わたしは「演じる楽しさ」はあって良いと思います。でも「マイノリティ」は「正しいイメージ」と引き換えに「演じる楽しさ」すら奪われるのですか? わたしは自分のことがあんまり好きじゃないから、違う自分になれる演技が好きなだけかもしれないけど、(わたしが「マイノリティ」かどうかはこの際置いておきますが)「マイノリティ」の「演じる楽しさ」も守ってほしいと思います。
 松崎氏の演技論に口出しするつもりは毛頭ありませんが、あまりにも世界を「マジョリティ」の「マイノリティ」の二項対立で見すぎな気もします。たしかに人種やセクシュアリティや先天的な障がいの場合、自らのアイデンティティに大きな関わりを持っていることは否定しませんが、だからといってその「マイノリティ属性」がホントウに「マイノリティ」の「存在の前提」であるかも非常に疑問です。
 「マイノリティ」差別の撤廃を目指して努力しておられることは非常に尊敬していますが、「マジョリティ」が口出しにくい空気感を漂わすのはあまり良くないんじゃないかと思います。冒頭に書いたように「マジョリティ」も「マイノリティ」も人間の多様性を二元論に落とし込み、消し去る言葉です。一枚岩ではないものを、さも一枚岩のように見せるのは「誤ったイメージ」を拡散してしまい、お互いの理解を阻むものになると、わたしは考えています。

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