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消えてなくなりたいという気持ち(※とてもヘビィ注意⚠️)


自己紹介にも書きましたが、私は長らく"消えてなくなりたい"という気持ちと"理由のない希死念慮"のふたつの軸で時折潰れております。

今回はそのうちの"消えてなくなりたい"という気持ちについて書いていきますね。

前提として、私には世の中の一般的な幸福論というものが苦痛に感じられる時があります。

・自分の望む将来を得られる
・結婚や子育て
・世間でいう、安定した人生
・人からの尊敬や信頼
・地域社会とのつながり
・親孝行
・終身雇用
・将来に対する夢や希望

羅列していくと、そういった普遍的な幸せのようなものが理解・実感ができない、もしくは既に零れ落ちてしまったものとなる訳です。
自身を育てなかった親に愛着など持てるはずもなく、当たり前の夫婦のかたちや親による子育ても実感としてわからず、幼少期から人生への悲観・姉による進路の妨害、田舎特有の地域社会でのねっとりとした気持ち悪さのようなもの、好きなことをしようとした時にその好きなことすら理解らなくなってしまった自分自身の心、他人の人生を生きているような生の実感のなさ、躁鬱の乱れや人生要所要所での苦難による借金、時には過去のフラッシュバックによる悪夢で過呼吸に襲われ、過去を思い起こさないように生きたら生来のアファンタジアがより極端なものとなり、脳から映像は完全に失われました。

今の自分が幼少期からの自分と地続きな生き物なのかも自信が持てず、周りと自分を比較した時に何で自分ばかりが過去に囚われて生きなければいけないのか、そう考える自分への自己嫌悪が止まらず、人への好意的な仕草ひとつ作るのにも多大な労力がかかり吐き気を催し、そういった自分が汚物のように思えて消滅願望が肥大し、人生で最も辛い時期に死にきれなかったという1点で命だけはかろうじて今までつながれ、そう思う度に祖母の介護を最適に行い切れなかったこと、祖父を看取った際に胸が詰まって言葉をかけられなかったこと、両親への幼少期からの憎しみ、妹を病みに追い込んでしまったことへの慚愧、過去の要所要所で自分の人生の妨害ばかりを行ってきた実姉への○意に近い感情、幼少期から続く同年代の人たちとの価値観のズレ、世の中への悲観-絶望、大人になることへひたすらに後ろ向きだった自分、時には自分の中で自分が分かたれ、本心が奥へ奥へ、自分にも見えないところへ押し込まれ、辛い過去とともに入念に封をされ、それでもしまい込み切れなかった本心と過去への後悔だけでも、人1人が消えてなくなりたくなるのには十分な重みだったのです。

今も今までも、共感した素振りを見せた上で、それでも万人が何かしらの重みを背負っている、あなただけが辛いのではない、という人は一定数いる。心の弱さを指摘されることもあります。
ならば、私はどう生きればよかったのか、どうしたらこの消えてなくなりたいという気持ちが失せてくれるのか、教えて欲しいと切に思います。

妹が病んだ時、私は言葉の刃が現実の外傷に繋がることを強く実感しました。それ以来、人を傷つける言葉は使わないよう細心の注意をはらって言葉を紡いで生きています。ただ、世の中はそうでは無いケースが多く感じられます。

言葉ひとつで人の心を抉り、心身を壊すことができてしまう、ということを深く病んだ人に触れたことのない人は知る由もないのかも知れません。逆に自分が繊細に考えすぎているのだろうとも思いますが、今更そこの思考回路を組み直すことも出来ずに、周りからの言葉で傷つき続けて心身が壊れても気力に近いもので取り繕い続けて、本当に壊れてしまったのが今の自分です。

自分より不幸な人は世の中に沢山いるのだと思います。それでも自分自身が抱えている澱は少しも減るわけでもなく、自分の一生がそれに苛まれ続けて在り続けるもの、という形になって、堪らなく消えてなくなりたくなるのです。そういった澱を言葉にはできない分、絵として出力できるようになってから、自分の脳みそを支配していた得体の知れない気持ちの悪さ=澱が絵画という吐瀉物により少しづつ楽になり、心身が壊れた今もそれを発信するということに縋りながらかろうじて生きることができています。

自分はきっともう本質的には明るくなれません。ただ、自分が脳の吐瀉物と卑下している絵画やこの文章が誰かにとっての幸福や喜び、そこまでのものではなくても共感することで楽になれる人がいるのであれば、自分が生きている意味も出てくると感じながら、創作や発信を続けて行こうと思います。

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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