《ホモ・プレカリアス》のひみつの集会 セルフレポートvol.1 —本物の「アヤしい集会」体験記
こんにちは。REFUGIAの久野です。
2024年2月17日(土),18日(日)に京都の紫明会館で上演した集会型演劇『《ホモ・プレカリアス》のひみつの集会』。50名以上の参加者の方にお越しいただき、無事終了いたしました。
このnoteでは、REFUGIAのはじめての企画でもあったこの集会の内容や、その背景にある狙いについて、振り返りを行おうと思います。
vol.1では、この企画の着想のきっかけとなった、本物の「アヤしい集会」に参加した体験について、書いていこうと思います。
企画の背景 —演劇、脱出ゲーム、マルチの集会
この企画は、「集会型演劇」と銘打ち、告知を行なっていました。フライヤーでも、目を惹くことを狙って、「やばい集会」という触れ込みで宣伝しました。
「公演」ではなく、「集会」——。この形式の着想は、「演劇の参考になると思って、脱出ゲームにひとりで行ってみたら、マルチの集会に誘われた!」という、私の個人的な経験から来ています。
「脱出ゲーム」から「異業種交流会」へ
しばらくの間、演劇から少し距離を置いていた私は、その「周辺にあるもの」に関心を持っていました。何か、演劇に近いようで遠いものが、演劇のヒントになるのではないかと。その中で気になっていたものの一つに、その頃、世間でブームになっていた「脱出ゲーム」がありました。
調べてみると、どうやら店舗型の「脱出ゲーム」があるらしい。友人と予定を合わせるのも面倒なので、ひとまず一人で、脱出ゲームに参加してみることにしました。
参加したのは、「地下室からの脱出」という設定の脱出ゲーム。たまたま同じグループになった見ず知らずの人と協力しながら、謎解きを解いていき、制限時間内での脱出を試みる、というものでした。
当時はまだコロナの影響もあり、フィジカルな体験に飢えていた部分もあったのか、楽しい体験でした。知らず知らずのうちに、同じグループの人zとは連帯感がうまれていて、(残念ながらクリアはならず、時間切れにより)「地下室」から脱出した後、他の参加者と雑談をするのにあまり心理的なハードルは感じませんでした。
帰り道、駅までの帰り道が一緒になった二人組と、雑談をしながら歩きました。「東京に出てきたはいいけど、あまり交友関係が広がらないよね。」という話題が盛り上がると、「異業種交流会があるからおいでよ」と誘われます。なんでも、その二人もそこで出会ったとか。話していて嫌な感じのしない二人だったのですが、正直怪しい宗教の勧誘か投資セミナーの類か? と疑ってしまう自分もいました。でもそれはそれで行ったことがないし、社会勉強になるのではと、ひとまずその交流会に参加してみるのでした。
LINEでもらった誘いによると、集合するのは、都内の某駅にある貸し会議室のようなスペース。中に入ると、30人弱の同世代くらいの若者が集まっていました。スペースには机が点在していて、机の上に軽食とドリンクが置かれています。
時間になると、交流会のリーダーとされる人が話し始めます。この人の見た目は若干胡散臭め。スラムダンクにまつわる教訓めいた話が終わると、いよいよ交流会がはじまります。
交流会は、文字通り、交流会。近くにいる3〜4人が自然とグループになり、ひたすら雑談をしていきます。話題は、仕事は何してる、とか、今後どういうことをしていきたいのか、など、たわいもない話。「まあこんなもんか」と、過ごしていましたが、違和感を感じたのは、先ほど会を仕切っていた「リーダー」と話すよう何度か促されたことでした。そんなに言うならと、リーダーに話しかけてみます。リーダーが話すのは、「いろんな人が集まる場所を提供したい」「自分には師匠がいて、自分も師匠のように慕われたい」「自分の人となりを好きになって、仕事をもらいたい」とかそんな話。ふーんと聞いていたら、途中で時間が終わりました。
二度目の「交流会」とリーダーとのお茶
その後しばらくして、再び交流会に誘われます。先日の交流会で肩透かしを食らった私は、今度こそ何か面白い刺激がないか、と、再度交流会に参加してみます。場所はまたしても某駅付近の会議室。会場に入ると、いるのは前回とほとんどおなじメンツ。違う点があるとすれば、前回いなかった「副リーダー」がいることくらい。前回と同様にして、今度は行くとこ行くとこでこの「副リーダー」と話すよう促されます。彼は、「コーチング」を仕事にしているらしく、「夢があるなら僕がコーチングするよ!」と言ってくれました。ただよう胡散臭さは抜けきれません。しかし、残念ながら尻尾を掴むこともできないでいました。
2回目の交流会の後、しっかり話す時間がなかったから、と、リーダーにLINE交換しようと誘われます。LINEを交換すると、「今度はサシで話そう!」と連絡がきて、喫茶店に誘われました。場所はいつもの某駅。19時なのに、喫茶店?なんでいつもその駅?と違和感が募るのを逆に面白がっていた私は、仕事終わりに喫茶店に向かいました。
到着すると、奥の座席に「リーダー」はいました。ただ、私の前に先客がいて、話し込んでいる様子。「ちょっと待って」と手で合図をもらった私は、コーヒーを片手に、遠くから三人を眺めていました。リーダーが話しているのは、大学生くらいの二人組。「何を大学生と話すことがあるのだろう」と思いながら見ていると、話が終わり、リーダーに手招かれます。
話した内容はあまり覚えていませんが、結局その場でも、(私がちょうど遠方に引っ越すタイミングであることを知ってか)リーダーも特に何かを勧誘してくるでもなく、その場は終わりました。
さすがに違和感しかなかったその会の後、ネットで色々調べてみることに。するとどうもこの手口は、とあるマルチ商法の常套手段のようでした。(詳しくはぜひググってみてください。)
「二人組」「某駅」「喫茶店」——。すべてのピースがつながった気持ちよさと同時に、そんな彼らに何度も会ってしまった気持ち悪さが残りました。また、彼らもある種の被害者であることがわかり、気の毒な気持ちにもなりました。その後引越しもあり、彼らに会うこともなくかったのですが、この一連の交流会に出入りした経験は、ここ最近で最も印象的な出来事となりました。(引越さなければ、謎の正義感で、彼らをその集会から「脱出」させようとしていたかもしれません。)
・・・と、ここまでが私の、「本物のアヤしいの集会」の体験記。
冒頭で書いた通り、「演劇の参考になると思って、脱出ゲームにひとりで行ってみたら、マルチの集会に誘われた!」という話です。
そしてこれが結果的に、演劇の参考になりました。
集まること、信じること、演じること。
この体験から私は、演劇にも、脱出ゲームにも、マルチの集会にも通じる共通の構造があるように感じました。まとめると、以下のようなものです。
人々が集まり、ある設定を信じ、役割を演じること。
その体験の共有が、集団の中に、ある種の連帯感を生むこと。
この点については、演劇も、脱出ゲームも、マルチの集会もあまり大差ないように感じました。
違う部分があるとすれば、設定の部分の「質」の違いでしょうか。
うまく言語化しきれていない気もしますが、そんな「近いようで遠い」3つの体験が、非常に刺激的でした。そして、「これらの狭間を漂うような体験」を作れないか、という今回の企画の着想に至ります。
次回のレポートでは、実際に制作した「集会」の構造について、書いていこうと思います。
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