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【アンネの日記】アンネフランクに最期に会ったHanneli Goslarさん (1928〜 )は2021年現在、イスラエル在住

🟣アンネフランクに最期に会ったHanneli Goslarさん (1928〜 )は2021年現在、イスラエル在住。



大学生時代、バックパックをひとつ背負って世界中を廻っていた。

ある夏、オランダのアムステルダムにあるアンネフランクの隠れ家を訪れたことがある。


アンネフランクがいつも見ていた屋根裏部屋から見た外の景色と西教会の時計塔は今も瞼に焼き付いて忘れられない。

二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。


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アンネフランクの最期の消息は、1945年2月末ごろのベルゲン・ベルゼン収容所での有刺鉄線越しの友人の Hanneli Goslarさんとの再会だ。

そのHanneli Goslarさんは、2021年現在、イスラエルでご存命だ。


🟣動画

●1945年初め頃の収容所でのアンネフランクとの再会について


●Hanneli Goslarさんの壮絶な人生とアンネフランクとの思い出を語る


🟣Hanneli Goslarさんの略歴

ハンナ・”ハンネリ”・エリーザベト・ピック=ホースラル

Hannah “Hanneli” Elisabeth Pick-Goslar

1928年11月12日 〜

アンネ・フランクの友人だったユダヤ人女性。

アンネフランクと第6モンテッソーリ・スクールに通っていた。

『アンネの日記』上では「リース・ホーセンス(Lies Goosens)」という偽名になっている。

1943年6月20日に親衛隊がアムステルダム・ザウト地区で大規模なユダヤ人狩りを行った際に、Hanneli Goslarさんは父と妹と共に逮捕された。

ホースラル一家はパラグアイの旅券を所有していたため、ヴェステルボルク通過収容所を経てベルゲン・ベルゼン強制収容所の「中立国外人」ブロックに収容され、赤十字の支援物資を受けることができた。

アンネフランクも後にこのベルゲン・ベルゼンに移送されてくるが、そこでHanneli Goslarさんは、1945年1月初め頃に有刺鉄線越しだがアンネと再会できた。アンネから食べ物をくれるように頼まれた。1回目、アンネがいる側へ投げ入れた際は、別の者が持ち去ったと動画で語っている。

アンネは、両親とは離れ離れになったことを涙ながらに語っていたという。

その後も食べ物をアンネフランクにあげるため、三、四回あったというが、二月末ごろからアンネの姿を見なくなったという。

1945年2月末ごろが、アンネフランクと会った最期となってしまった。


Hanneli Goslarさんと妹は生き残る事が出来たが、父ハンスのみ1945年2月25日にベルゲン・ベルゼン収容所内で死亡。

ベルゲン・ベルゼンがイギリス軍によって解放された後、Hanneli Goslarさんと妹はオランダ・アムステルダムへ戻ろうとしたが、結核を患っていたために許可が下りず、しばらくマーストリヒトの病院で暮らした。

1945年8月に、生き残ったアンネフランクの父オットー・フランクがこの病院に駆け付け、以後オットーは父親代わりとなって姉妹の面倒をみた。

1945年12月にオットーの支援でスイス・チューリヒにいる伯父のもとに引き取られた。

1947年には妹とともにイスラエル・エルサレムへ移住し、看護師になった。

出版業者と結婚して子供3人、孫10人に恵まれている。

2021年現在もエルサレムに在住。


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アンネフランクさん (1940年)




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