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【短編】 三度のコウミョウ屋

○ コウミョウ屋

【チンドン屋】
 太鼓や鐘やラッパなどの楽器を演奏して人目を集め、他店の宣伝や紹介を行う日本の伝統的な広告業である。

 この物語に登場するチンドン屋・コウミョウ屋は、何も宣伝せず、何も紹介などしない。
 彼らの行いも存在も都市伝説とされ、出会う事はあれど存在の証明は出来ない。

 何時しか記憶から消えていく彼らは、なんの為に演奏を続けているのか、都市伝説にはその理由が記されていない。

1 今までの人生

 十月十六日午後七時。
 四十二歳の誕生日を迎えた会社員の長谷川はせがわ丈一郎じょういちろうは、今日も心虚しく気持ちも沈んだまま帰路についていた。

 独身で見合いをする気は無い。恋人もいないし遊び仲間もいない。
 仕事も”やりがい”や”やる気”などという気持ちは皆無である。それでも今までの経験を活かして業務に差し支えなくまともに熟せている。

『大人として、社会人として当然の責任』
 社会人のマニュアルがあれば書かれていそうな言葉が身に染みついて、まるで呪いか命令通りに動くロボットのようだ。
 丈一郎はとうに生き甲斐などは消えている。ただ生きて、ただ働く奴隷のような存在。

 気付くと日々の時間経過、月日の経つ速度が増していると感じた。

 ”三十歳を過ぎたら急速に歳を取るのが早くなる”と言われたが、丈一郎の感覚では大学に入った時から少しづつ早く感じはじめ、いよいよ学生が終わるとさらに加速し、二十六歳から今に至るまで加速度が増しているようにさえ感じる。

 同級生達はどんどん結婚していき、中には十八で結婚して子供が出来た奴は、もうお爺ちゃんになっているという。

 既婚者達の心情は分からない。「早めに結婚はしない方がいい」と口を揃えて言うが、子供の話や辛いながらも楽しそうな一面を見せられると説得力は無い。

 未婚で厄年を迎えた丈一郎の心情としては、妙なおいてけぼり感を抱いてしまっている。
 早く結婚しなくても、日々同じ作業、同じ習慣を続けていれば、早めの結婚をしていようとしていまいと同じだ。

 きっと若年既婚者達の目には、友人たちと楽しく、時間に追われない生活を送っていることが羨ましく疎ましく思うのだろう。しかし、それは既婚していようといまいと、子供がいようといまいと関係ない。
 楽しい生活を出来る奴は出来る。出来ない奴は出来ない。当たり前の事だ。

 自分にあった行動を、自分の現状を考慮して、皆生活しているのであって、楽しそうに見える連中もそれなりに苦労をして一時の楽しい時間を過ごしているのかもしれないし、これから途轍もない苦労が待ち構えているかもしれない。

 仕事、家庭、収入。生活における現実的な問題ばかりを見続けているせいか、それとも丈一郎が気付いていないだけで、元から冷めやすい性格なのだろう。夢や希望などはとうに失せている。
 未来に希望も期待も無い。ただ、成すがままあるがままに生きるしかない。そう思う大人になってしまったのだ。

 退屈だが何をするにも無駄だと感じてしまい、他所へ気晴らしに行こうにもお金が無駄だと先に感じてしまって動けない。むしろ休みの時は家で、パソコンの動画を流しながら携帯ゲームで遊び、夕方にコンビニで夕食を買い、食べて風呂に入り、晩酌の缶ビール一本を飲んで寝る。

 それ程までに丈一郎の人生は色あせて心動かない、寂れたものとなっていた。

 いつからだろう、何を見ても心が弾まなくなったのは。
 いつからだろう、誰ともどこかへ行こうとしなくなったのは。
 いつからだろう、死を望みながら生きるようになったのは。

 本厄を迎え、心が渇ききっている丈一郎は、せめてもの誕生日プレゼントと称し、居酒屋で些細な贅沢をしようと思い立った。

 昔はこういった店へ一人で訪れる事もあったが、三十後半から今に至るまではもうなくなった。

 昔から通っていた居酒屋近くまで訪れると、まだ存在する事に些細な喜びと安堵の溜息を吐いて歩き始めた。

 ふと、何処からともなく軽快な太鼓を叩く音と鐘の鳴る音が聞こえた。

 太鼓というが、大太鼓ではなく小学生が行う鼓笛隊が扱う小太鼓。
 鐘は、風呂桶を浅くした金盥かなだらいのようなもの。
 それ等でリズムを刻むと、サックスの演奏が流れる。三つの楽器の音が組み合わさり、昭和の商店街や祭りの演奏行列など、それを聞くだけでそれらの想像が引き立つ音楽である。

「……チンドン屋?」

 その演奏隊とその音楽は、その言葉を引き出すのに適している。けしてチンドン屋を幼少より見続けている訳でも、毎年恒例行事のようなイベントで見ている訳でもない。

 何かで見て、それをチンドン屋と知った。太鼓と鐘を叩く音、チン、ドン、からチンドン屋と覚えやすく定着した。

 チンドン屋の音楽がいつの間にか前方から聞こえ、それが迫ってきている。
 何時しか周囲に不気味なほど人がいない。さらに車も走っていない。

 音が迫り、周囲の奇妙さに恐怖を抱きつつも、楽隊が自分の前に現れた時、丈一郎は狼狽え立ちすくんだ。
 そんな丈一郎を気にも留めず、チンドン屋は丈一郎の周囲を回りながら演奏を続ける。

 サックスを吹く男性は、『コウミョウ屋』と書かれたのぼりを背負っている。

「さあさあ、お聞きいただきましょう。心身共に疲れた貴方に、呑気なリズムで癒しの旅へ」
 ――チン。鐘の音が鳴った。
「それでは参ろう、癒しの旅へ」
「あソレソレ参ろう、参ろう、参ろう何処いずこ?」

 コウミョウ屋の人数は三人。
 男性二人は時代劇の侍のような姿、女性は派手な着物姿に白塗り化粧に口紅。揃って笑顔を絶やさず、能天気な雰囲気で語って聞かす。
 陽気な印象をまき散らすコウミョウ屋一向に対し、丈一郎は不気味と異様さに恐怖している。

「な、何なんですか!?」

 すかさず女性が何処からともなく引っ張りだした膨れた風船を丈一郎の目の前に突き出した。

「では、一つ目へ!」と言って針で風船を突いて割った。

 ――パーンッ!!

2 かつての夢

 風船が割れると、突然視界が暗くなった。
 音楽も消え、周囲を見回し手探りで物に捕まろうとした。しかし何処を触っても何にも触れることが出来なかった。
 そうこうしている内に視界が開け、何処か懐かしい夕方の学校の教室へ辿り着いた。

「……ここは?」
 すると、またもや軽快な太鼓と鐘の音が奏でられ、サックスの演奏が響いた。
「あの、ここは何処ですか!?」

 太鼓を叩いている男性が、リズムに合わせず話しかけた。

「これらは、あんさんの心が望んだ場所ですんで」
「あの、私は学校な――っ!!」

 突然、まるで昨日の事のようにその時間、その光景、その教室での事が思い出された。

「私はこの時決心したんだ――っ?!」
 突然口が動き、言葉を発した事に驚く。
 丈一郎は奇妙な感覚に陥り、咄嗟に口元を両手で押さえると、太鼓の男性が軽快に太鼓を三度、トトトンーー。と叩いた。

「さあさあ語ってもらおうかい」
 今度は鐘が叩かれた。
「あんさんの決心とやらを」

 自然と両手が離れ、抵抗する力が入らなくなった。

「中学の時、早稲田大学に通っていた親戚の大好きだった女性ひとがとても素敵でかっこ良かった。知的で運動神経がよく、明るくて逞しかった。あまりにも不純な理由だが、私はあの人のようになりたいと思って、早稲田を目指し勉学に励んでいた。頭が痛くなり、どうかなる程に勉強した。元々社交的では無かったから、当然友達など出来なかった。でもそれで、一心不乱に学生時分の時間を勉強に費やせたんだ」
 どのような顛末を迎えたかを思い出し、言葉が詰まる。
「…………けど落ちた」

 話の区切りの如く、男性は同じように太鼓を三度叩いた。

「けどあんさん、浪人して翌年受ければよかったでやんしょ? なぜそうしなかったんで?」

 不思議と、誰にも話さなかった想いが言葉となった。

「一浪目の五月、あの女性ひとが事故に遭い還らぬ人となった。私は酷く悲しんで目標を失った。闇に落とされた気分だった。今まで励んだ勉学は一体なんの為の知識か分からなくなって……そして、就職活動に励んだ。何とか入社出来た職場でパソコンの技術と受験の為に得た知識が功を奏し、今の会社を先輩に紹介してもらって職場を代えたんだ」

 いざ自分で思い返して語ってみると、その時々の光景が数秒程ずつ甦り、悲しくもあり、仄かに温かい気持ちになった。

 まるで一段落の区切りの如く、サックス奏者が軽快な音楽を奏でた。相変わらずジャズの流れる曲ではなく、昭和の雰囲気が強い。

「あんさん、思い違いをしちゃぁいけねぇよ」
「思い違い?」
「結果的にはこの時の感情からくる選択や行動であんさんは今に至るのはわかるよ。けど、人付き合いが苦手で勉強しかないと決めつけて、出来る事だけに感けて変わろうとしないんだったら、何処へ行っても同じ事の繰り返しですぜ」
「いや、そんな事、貴方に言われなくても分かってますけど」

 分かってる。その言葉が妙に、虚しく、恥ずかしく、辛く胸に燻る。

 唐突に鐘を鳴らす女性が丈一郎の足元から飛び上がるように現れた。

「そいじゃ、次に行きやしょう!」
 満面の笑みで、またも風船を取り出し、目の前で割られた。

 ――パーンッ!!

3 喪失

 次に現れた光景は、今にも雨が降りそうな濃い灰色の曇天、湿った匂い。自分の住んでいるマンションの薄暗い台所であった。

 その光景は毎年、雨が訪れる際、幾度となく目にした光景であり、特定の日を指してもいない。しかしその日は丈一郎の記憶に深く刻まれている、両親の死の報せを聞いた時であると断定できた。

 二十九歳の夏の終わり、日本へ上陸しなかった台風から流れて来た雨雲により齎された曇天であった。

「この時痛感しました」
「いったい何を?」
「ほら、よくテレビとかで言いませんか? ぽっかりと心に大きな穴が開いたってやつです」
「ああ、失恋時によくあるやつでしょ? まあ、なんでも大切な何かを亡くしゃぁ、心に失望の負担が圧し掛かるもんでさぁ」
「両親を亡くし、実家に帰っても地元で仲の良かった奴は少ない。幼少や小学生時代は地域のイベントで楽しい思いもしたけど、いざ大人になって帰っても、地域民達とどう接していいか分からないから、家を手放して一人で過ごす決意をしました。幸い、都会じゃ一人でいる人は多いし、あまり干渉されないですからね」

 男性は三度太鼓を叩いた。

「他者と干渉しない生き方ってぇのは、かなりの大損ですぜぇ」
「どこが大損ですか? 人って、働いて歳とったら後は死ぬだけですよ。他人に干渉しなくて、最低限仕方ない迷惑はいいとして、それ以上の迷惑をかけない生き方って、損ではないでしょ。むしろちゃんとした気遣いだ」
「いいや大損だぁ。実際、あんさんは今の会社を紹介してもらったのは、先輩の伝手がきっかけでしょ? まあ、あんさんの実力が実を結んだってのもあるけどねぇ」

 そう言われればそうだが、その一時を、他者との干渉。などと結びつけられたくも無い。

「他者と干渉するってぇのはね、自身が変化するきっかけでも、自分自身の弱さなり強さなり、卑劣さ、あくどさ、優しさや楽しさとか。要するに良いも悪いもを全部含めて、"知る"きっかけよ。それに、下手くそな解釈を抜きにして、分かりやすく言えば、飯は大勢で食ったほうが美味いでしょうよ」
「ですが、いらなくもありますよね。知って何か得でもあるんですか?」
「損得勘定の話じゃねぇですよ。あんさん、さっき心がどうとか言ってましたでしょうや。年食えば人恋しさは増すもんですぜ。若いからって、聞こえのいい一匹狼ってのを気取っても、人間、そんなに万能じゃあない。特に心ってのは、そんな屁理屈で強靭さを一生涯通せるもんでもない。理解した方がいいですぜ」

『理解してくれないか!』
 突然、聞き覚えのある命令口調が聞こえた。

 丈一郎が周囲を見回しても誰もいない、そんな中、背後から指で背中を突かれる感触を感じ、振り返った。
 そこにはあの鐘を叩く女性が風船を持ち、待ち構えていた。

「ついつい先走っちまいやした。最後のしこりへ行きやしょう!」

 風船を鳴らし、針で突いた。

 ――パーンッ!!

4 じゃあ、どうやって

 それは、会社の一室であった。
 人は誰もいないが、全ての席のパソコンが起動されており、無人にも関わらず画面には何かしらの文字記入やページ変更などが行われていた。

「あっしにゃ分かんないですがね、こんな堅苦しい所で働いて、何が楽しいんでやんしょ」
「仕事は楽しくないさ。毎日同じ人たちばかりで機械のように命令を忠実に熟す。最近じゃ、入社してもすぐ辞める。こっちは上司の口癖が『理解してくれないか』とか、『頭は使えるか?』とか、パワハラってやつに耐え続けたのに。私も年期と実力から、それなりの地位に立たされているが、あの時の上司の怒りの原因を痛感している。けどだからといって下の者へまともに注意すると、何々ハラスメントとか言って色々手に負えない始末だ。面倒くさいったらありゃしない」
「どうして辞めようとしないんで?」
「簡単に言わないでくれ。辞めてどうするっていうんだ。帰る家もないし、伝手もないし、今ある実力で別の職場に行っても、結局は同じことの繰り返しばかり。……辞める意味がない」

 男性は思い切り太鼓を連続して叩いた。
 トントントントントントントン――……。
 何度叩いたか、はっきりわからないが、落ち込んでいる丈一郎を奮い立たせる勢いは感じ取れた。

「あんさん気づいてますかい?」
「何が?」
「初めにあんさんが言ったっしょ。あっしが、『変わろうとしないんだったら、何処へ行っても同じ事の繰り返しですぜ』って言ったら、『言われなくても分かってますけど』って。けど、見てくだせぇ。あんさんの何も変わんないままの現在いまを。スカして、分かりますけどとか言うなら、もっと自分で幸せになれる生き方してみてくだせぇよ」
「べ、別に、貴方にそんな事を言われなくても、私は私で楽しく」
「無いでしょ」

 真剣な表情で告げる男性の一言が、強く胸に刺さる。

「友人もいねぇ、親もいねぇ、恋人も、妻も、子も、あんさんの周りにゃ誰もいねぇ。作ろうともしねぇ。声かけられても、絆を深める行動もねぇ。あんさんの得た知識ってのは、こんな寂しい人間になるための知識だったのかい? あんさんが目指した『人』ってのぁ、こんな気力のねぇつらの奴だったんですかい? 人間ってなぁ、いつ、どんな時だって、行動一つで大きく変化できる生き物なんですぜ! 一つの行動がすぐに結果に結びつかねぇでも、先の未来で何かしらの変化を起こせるんですよ! あんさんがこの会社に入れたのだって、いっぱい覚えた成果が実を結んだからでしょうや!」

 丈一郎は、何時しか涙を流している事に気づき、発した言葉が蘇る。

『言われなくても分かってますけど』

 分かっていない。本当は分かっているのだろうけど、頭で身勝手な解釈をして口答えをしているだけにすぎない。
 恥ずかしいのは、この事だ。今、目の前で訴えているのは、感情任せの正論で心を動かす男性だ。
 こちらは、理屈ばかりで壁を作り、正当性を主張しすぎて孤立し、揚句、自分が目指した人とは大きくかけ離れた存在の、格好悪い、虚しい人間だ。

「……じゃ、じゃあ、どうやって変わればいいんだ! もう、四十二歳だぞ!! どうやって、何して変われば――っ!!」

 またも、足元から立ち上がるように女性が現れた。勿論風船を構えている。

「そいつはあんたが決める事でさぁ」
 やはり満面の笑みであった。

 ――パーンッ!

5 隣の席の酔っ払い

 目の前が真っ暗になった。しかし、軽快に太鼓と鐘を叩き、サックスで『昭和の賑わい』と、表現できそうな、力を落として聞ける演奏は聞こえる。聞こえはするが、遠退いている。

 音が消えると、居酒屋近くの壁に丈一郎は凭れていた。
 道路に車が走り、歩道を数人単位で人が歩いている。

 丈一郎の状態が酔っ払いのように思われたのか、通りすがる人たちは、時折丈一郎に目配せしてまた進行方向に向けて去っていった。
 全てが他人なのだからしょうがないが、声一つかけられない寂しさを抱きつつ、丈一郎は酒場へと入っていった。

 ◇◇◇◇◇

「あんたも苦労してるんだな」

 カウンター席でビールを飲みおかずを食べていると、先に隣にいた男性が話しかけて来た。当然酔っていて、男性のツレは明日の仕事に支障をきたすから帰ったらしい。
 丈一郎は話のネタとしてチンドン屋の件を持ち出そうかと思うも、話せば変な目で見られると思い、秘密にした。
 とりあえず自分は今後どう行動しようか? と、簡単な悩み相談のように打ち明けた。

 赤の他人相手なのだが、酒が入るとなんでも話してしまう自分がいる事に丈一郎は驚いている。

 男性は何度も上の者と衝突し、その度に職を転々とし、今ではスーパーの店員をしているらしい。
 すぐ頭に血が上り怒鳴ってしまう性格のせいもあって、妻は子供を連れて出て行ったきり帰ってこない。両親は若い時分に他界したそうだ。
 男性も丈一郎と同じ、孤独の身である。しかし、男性は丈一郎と違い、社交的で、現在も休みの日には仲間とバーベキューに行ったり、夏には海へ行ったりと、その時々で色々満喫しているらしい。

「そいつぁあんた、勿体ねぇよ」
 丈一郎が何をすればいいか相談した時、すぐさまそう言われた。
「でも、私は仕事一辺倒で、本当に退屈な奴ですから」
「な、わけねぇって! 今こうやって酒飲んでっと、あんたも楽しいとこあんだよ! 結局、考えんのが面倒くさいってんだろ? んな、高校生じゃあるまいし、面倒面倒言わねぇで、いっちょ、勇気出して動けばいいだけなんだって」
「じゃあ、どうすればいいですか?」

 この答えを、居酒屋の大将が答えた。
 今日は客数も少なく、全ての注文を終え、余裕が出来たのか、仕込みをしながらの返答である。

「お客さん、自分も仕事ばっかで、大した意見も言えないですがね。”自分のやるべき事”って考えるんじゃなくて、出来る事を見つけて動けばいいんだと思いますよ」
「大将は何かしたんですか?」
「ええ。三年くらい前から、銭湯やら温泉やらを巡ってます。ほら、こんな商売だから時間的にやれること限られるし、体力的にも無理があるでしょ。歳も五十八だから激しい事出来なくて。けど、風呂行くのを始めると、ありがたみとか、他人と会話したり友好を築ける喜びとか、些細ですが良いもんですよ。そんな感じで何かの体験とか、行ってすぐ帰れるものとか、探してやってみればいいんですよ」
「そうそう、今じゃ~、趣味ぃ? って、ネットで検索すりゃぁ、一発でいっぱい見つかる。俺のツレなんか、それで趣味が八個増えたってんだからなぁ」
「八個も!」

 男性は急ににやけ、耳元で囁いた。

「嫁さんは呆れて別居中なんだけどな」
 そんなオチにも、笑って返せる位、酒の力で丈一郎は心にゆとりを持てた。

 ◇◇◇◇◇

 翌日、あんな不思議な体験をして、居酒屋で意見を聞いた丈一郎は、早速出来そうな事を調べた。

 不意に、コウミョウ屋が何かの都市伝説かと思い検索すると、【黄昏時のチンドン屋】という噂が載っていた。それは夕暮れ時に、自分にしか見えないチンドン屋が現れ、そして去っていく。ただそれだけなのに、どこか心に不思議な変化を与えるというものである。

 変化の種類は様々で、心が解放された気分になったり、ぽっかりと何か穴が開いたりと、短時間で不思議な感覚に陥るものである。

 丈一郎はその噂を鼻で笑い、大半の出来事を忘れているが、まだ残る三人の顔を思い浮かべた。

(もっと自分で幸せになれる生き方してみてくだせぇよ)
 男性の言葉を思い出しつつ、インターネットで『四十代から始めれる趣味』を探した。その日は調べるだけで、候補を挙げて終了した。

 夕方、初めて近くのスーパー銭湯へ向かった。
 露天風呂で空を眺め、大きく呼吸をすると、なぜか、これから何か新しい発見が出来るのかもと、曖昧に、漠然と、確証も無いが、感じる事が出来た。

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