教育改革と称する改悪

1979年に始まった共通一次を最初に受けた世代、1985年に昭和の米騒動といわれた数学や現代社会、理科1といった、たった数年で消えた科目を共通一次で受けた世代。1987年は事前出願式(共通一次試験の出願と同時に受験する大学を決める)で足切りで受験の機会を奪われたり、志望変更が不可能となった唯一の世代(翌年には解消されたらしい)。1997年から2015年にかけて、学力低下と言われた世代。これらすべて教育改革と称した改悪の結果、苦しんだ世代だ。

改革と称して、受験生にそれまでと全く違った傾向を押し付け、その結果、勉強以外のことで苦しむケースがどれほど多いことか。

議論が始まり、とにかくやってみようで始めてしまって、後から失敗だと気づき元に戻すのに、20年近くの月日を費やす。学力低下や考える力の欠如というのは基本的な知識を学校で教わらないことがすべての原因である。

考える力のもとになるものは知識である。知識がないと、そのこと自体がすでに存在したものなのか、新たな発見なのかすらわからない。

世の中が、詰込み主義だとか学歴偏重だとかなんだかんだ言うわりには、先読みをせずに、結果として上を目指すのではなく、下に合わせる制度改革のどれほど多いことか。日本全体の底上げを考えるなら、上はさらに上を目指せるようにすべきである。それが、国公立でできなくするから、私立や塾で対応していかざるをえなくなるのだと筆者は思う。で、それがまた、教育の機会が奪われるという論争になる。

しかし、それでも、知識を与える学校教育であれば、その中でもっと知ろうとするものは出てくるはずである。学力低下は、学力が低下したのではなく、学力を向上させようと考えること自体が否定されたからだろうと思う。

否定されたというのは、勉強する時間が減ったということだと思う。時代が進むごとに、勉強以外の楽しみが身近にどんどん増えてきている。その中で、勉強ができるというのは、自分を律することが出来るということだ。誘惑に周りを囲まれそれでもなお努力が出来る子供はそれほど多くはないだろう。以前に比べその誘惑の量が圧倒的に多い。子供たち自身が努力をしなくなったことが、そもそもの学力低下の原因であり、その要因の一つを無駄な教育改革が引き起こしていると筆者は考える。

ただ昨年から今年にかけて、勉強の仕方によっては、夢を見ることが可能だと気づいた人が多いのではないかと思う。どんどん増えている勉強以外の楽しいものを自分で見つけ出し、それを世の中に認めてもらいビジネス化することで、起業家になれるのだ。

様々な知識を蓄え、その引き出しの広さから、誰もが考えつかないことを見つけ、それを育てることで、日本発の新たなビジネスを作っていって欲しいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?