大学入試 その2

国公立大学の前期日程試験が終わりました。受験生の皆さん、どうでしたか?後期日程を目指して休みなく努力を続けられている方も多くおられるとは思いますが、一日くらい息抜きをしてもよいのではないでしょうか?保護者の皆さんも、お疲れさまです。合格発表まで落ち着かない日々を過ごされると思いますが、ご子息の力を信じて、待ちましょう。

さて、大学入試という題目で記事を何回か書いていますが、今日も感じた疑問を述べたいと思います。

考える力を試すには、小論文と面接でなければ測れないが、それを測るのは真に考える力を持ったものでなければならない。それを測る場合、基準が不明確、主観的などの理由から、不正の入り込む余地があったり、不公正さが問題となる。過去から延々引き継がれてきている国公立大学の一般入試は、不正の入り込む余地が極めて少ない仕組みで、どんな後ろ盾のある者であろうと、受験者にその力がなければ、合格しない仕組みだ。社会的な存在価値として、それに勝る価値はないし、それゆえ受験者も保護者も高みを目指して、努力するのだろう。

結局のところ、大学入試で、公平さを保つには、単純なものでなければならないため、科目試験の総得点で、合格、不合格を判定するのが一番公平であろう。数学で途中の計算過程を記入させるのは、答えが間違っていても、その導出過程が正しいかどうかを見極めるためであり、決して、考える力があるかどうかを測っているのではない。(ただ、その中で採点者が思いもよらない解き方をしている場合は、加点してもよいのではないかとは思う。)

筆者は、(超)難関大学を卒業した人が、人間的に優れているかどうかを議論したいわけではない。

大学は、教育を乞うために進むものではなく、研究を行うところである。ということを世の中が認識していない。

企業は、人の採用時に、客観的な判断をしているつもりではいる。しかし人間性を客観的に判断できるほど、人を見る目がある人材そのものが多くないので、そのほかの要素で客観的に判断しているだけ。ということを世の中が認識していない。

大学への入学が将来を決めるかのような風潮があるが、卒業した大学での名前で仕事をするわけではないから、入るまでの要素であって、入ってからは何の意味もない。ということを世の中が認識していない。

結局、学歴社会を払拭するのは、大学や大学入試に改革を求めるものではなく、社会や企業が、もっともっと流動性を有した、人の採用を行わない限り解決しないことだと思う。

一度働いて実績がある者は、その実績を評価し、客観的に採用不採用を決めることが出来る。しかし新卒採用は、単なる賭けでしかない。ということも世の中はあまり認識していない。

唯一大学で変わってほしいと思うのは、休学や転学に寛容になるということだろうか。学科を変わるのに、その学科の入学時の点数を超えていないとダメとか暗黙のルールがあったりするようだが、その大学のある学科に合格する程度の教養は身に着けているわけだから、チャレンジさせてあげたいとは思う。18歳でいろいろなことは考えているとはいえ、自分の向き不向きは、高校では、ましてや大学生ですら判断は難しい。そういう意味では、そのチャンスをつぶさずにいてあげて欲しいとは思う。

一方で、入試をクリアするため、受験生が一生懸命努力することは、将来仕事をしていく時に必ず役に立つ。覚えた知識はもちろんのこと、そこに到達するためにスケジュールを管理し、この日までに何をする、この日には書類を提出しなければならない、出願するためにはこれこれを用意しないといけない、それらのことを一つ一つクリアしないと、合格にたどり着かない仕組みである。受験科目を間違えるなどと言うことはもってのほかだし。また自分の弱点がどこにあって、それをクリアするにはどうすればよくて、ということも考えないと、弱点を弱点のままほっておいて、合格できるほど甘くはない。

これらのことを順序だてて処理するということを18歳で確実にこなせる子たちのスケジュール管理は大人になっても必ず役に立つであろう。

共通テストは、科目ごとの良し悪しは議論されているが、総じて昨年度と大きく結果が変わらずに済んだようなので、受験生にとっては、出願先を選ぶときに悩まずに済んだのではと思えたこと唯一の救いである。

とにかく、大人が寄って集って、将来の子供を困惑させることはやめてあげて欲しいというのが、本当のところだ。ただでさえ、傾向として同じ問題が出題されるのかどうかだけでも受験生にとっては大変なことであるのに、それに加えて入試制度自体がどう変わるのかというようなことまで加わったら、特にその初年度困惑する受験生のことを考えると胸が痛む。子供を振り回さずにいてあげて欲しい。


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