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小学校教科書が歪めた国史⑤ 鎌倉時代~鎌倉武士よりも、暴風雨と農民に元寇の功績を与えた罪

「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」。これは誰もが一度は覚えた年号の語呂合わせです。しかし、無味乾燥な年号ばかりを暗記させられたことがきっかけで、歴史嫌いになった子供も多いことでしょう。
 一方、この年号があまりにも有名なために、源頼朝による鎌倉開幕の意義が過大に評価されているように思われます。この出来事により、貴族の時代から、一気に武士の時代に突入したかのように小学校の教科書では読み取れるからです。
 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、東国の支配権確立に基づくものです。つまり、西国の支配権をまだ確実なものとはしていませんでした。そこには、京都にあって院政を行い、西国武士団に君臨していた後烏羽上皇という大きな存在があったからです。
 皇室と幕府の対立は、承久3(1221)年に起こった承久の変(乱)で頂点に達します。この戦いで後鳥羽上皇が敗れ、上皇は土御門上皇、順徳上皇とともに配流され、仲恭天象も廃位されました。この前代未聞の「処分」を幕府(武士)が行うことによって、ようやく武士の政権が確立したのです。しかし、それでも幕府は、皇室を滅ぼしはしませんでした。
 そしてこの時、すでに頼朝は死んでいます。つまり頼朝は、平清盛と同様に、過渡期の人物だったとも言えるのです。これは源平の合戦の結果に幻惑されたことに加え、教科書の作者が皇室を軽視した結果が反映されているものと思われます。
 その後、安定しかけた武家政権の屋台骨を揺るがせたのが元寇です。
 学習指導要領も時の執権・北条時宗を取り上げるべき人物として指示しています。わが国が元(モンゴル)と高麗の連合軍に侵略され、それを撃退した史実は、「専守防衛」を教える格好の教材となるのではないでしょうか。しかし、近現代史において、わが国の行為を「侵略」とかき立てている教科書は、この外国による明らかな侵略行為に対して「元は……せめてきました」(大阪書籍)と淡々と書き記すのみで、その残虐行為に触れるものはありません。しかも小学校教科書には、元の尻馬に乗って侵略の片棒を担いだ高麗の名前は隠匿されています。明らかに、執筆者が一定の基準を持っていることがわかります。
 事件の経緯についても、もっぱら「暴風雨」によって侵賂軍が撃退されたかのような捉え方で、幕府や鎌倉武士の奮戦努力はほとんど省みられていません。ましてや、亀山上皇や日蓮が国家安泰を祈願した事実などまったく書かれていません。
 侵略軍が「たまたま起こった暴風雨にあい、大損害を受けて引きあげ」(教育出版)たのは結果論で、それよりも、武士たちが果敢に抵抗し、長期間にわたって海岸線を防衛していたことの方が重要です。侵略軍が嵐にあったのは、その防衛力のおかげだったのです。
 幕府による石塁(上陸を阻むために築造された石垣)建造に関しても、「1回目の戦いのあと、幕府は農民を使って海岸に石垣を築き…」(教育出版)と、ことさらに「農民」を使役したことを書き、例によって階級闘争史観に子供たちを誘導しています。鎌倉時代の武士は、平時には支配下の農民とともに鍬を片手に農作業をしており、当時は身分の区別も明確ではなかったのに、なぜ農民限定なのでしょうか。
 このように教科書は鎌倉時代の武士たちが祖国を守るために奮戦したことを意図的に限しているのです。この歪んだ表現の方法は、教科書の執筆者が、子供たちが国防意識や危機管理に目覚めることを恐れているとしか思えません。これを排除できない検定制度にはやはり欠陥があるということなのでしょう。

※各社教科書の記述は、平成12(2000)年度版によります。
連載第97回/平成12年4月12日掲載


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