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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化⑥

3.学者と学問

【解説】
 『六諭衍義』については、世界史と日本史をつなぐ知識として、教科書の片隅に出てくる話題である。仲原はあえてこれについて、「中国の本で順則の著述ではありません」と強調している。沖縄独自の学問はないことを間接的に書いているということだろう。沖縄が日支両国の影響を受けている小国であり、双方の影響が強いことはやむを得ない。沖縄で特筆すべきは文学であるが、それは次回にまとめた。
 例によって文の流れを整え、今回は、『六諭衍義』について少しリサーチして加筆した。
 
【本文】
 この時代の学者として有名なのは、既に政治家として紹介した蔡温、識名盛命、程順則です。
 識名盛命は1703~12年に尚益王の三司官になった日本文学者です。京都に出て国文学を研究しようとしたのですが、当時は僧侶の以外の旅行は難しかったので、盛命は髪をそり、瑞雲と改名して密かに京都に行き、国文学と和歌を学びました。その時の紀行文『思出草』は洗練された日本語で書かれており、和歌66首を含んでいます。また盛命が三司官の時に、沖縄の古語辞典『混効験集』や『おもろさうし』などが編纂されており、そういった政策を推進していたと思われます。
 程順則(名護寵文)は蔡温、玉城朝薫などと同時代の人で、人格者として名高く「名護聖人」と呼ばれた人です。当時は日本にも名高い漢学者が多く、1717年の使節団の中に、順則も文書係として同行したので、江戸や薩摩での学問的な交流があったようです。
 順則は『六諭衍義』(りくゆえんぎ)という修身の本を刊行したことで有名です。
 六諭とは、明の洪武帝が14世紀の末に発布した「孝順父母(親孝行せよ)、尊敬長上(年長者を尊敬せよ)、和睦郷里(わぼくきょうり=故郷を愛しうちとけよ)、教訓子孫(子孫を教訓せよ)、各安生理(自分の置かれた生業に満足せよ)、毋作非為(ひいをなすなかれ=悪いことをするな)の6つの教訓のことです。
 『六諭衍義』は1719年に薩摩藩主島津吉貴から将軍徳川吉宗に献上されました。これに日本語訳などが施された『六諭衍義大意』が出版され、江戸町奉行の大岡忠相が吉宗の命を受けて、江戸市中の寺子屋で教科書として使わせました。
 

【原文】
 学者として名高い人は識名盛命、蔡温、程順則等であります。
 識名は尚益王の三司官(一七〇三~一二)になった日本文学者です。京都にでて国文学を研究しようとしたが当時は僧侶の外、旅行はむつかしいので髪をそり瑞雲と改名し、ひそかに京都に行き国文・和歌をまなんだ人です。その時の紀行文「思出草」があり、又沖繩の古語辞典「混効験集」は彼が三司官の時のへんしゅうです。蔡温は前に話したとおり、漢学者で又政治家です。独物語、御教条、自叙伝その他多くの著書があります。
 程順則(名護寵文)は蔡温、玉城朝薫などと同時代の人で、人格者として名高く名護聖人といわれた人です。六諭衍義という中国の修身書を刊行したため日本でも有名になっていました。これは「父母に孝順」外五つの徳目をあげて道徳をといた中国の本で順則の著述ではありません。これが日本につたわり徳川吉宗将軍はこれを日本語にやくさせ出版して寺小屋(今の小学校とおなじ私立の学校)などの教科書にさせました。
 当時は日本にも名高い漢学者が多く、一七一七年の使節団の中に順則も文書係りとして行ったので江戸やサツマでこれらの人々とも交わり詩をつくったりしています。

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