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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第8章 王国時代前期の文化④

5.建築

【解説】
 区切りが悪く、例によって話があっちこっちに飛ぶので、項目を立てて分類して記述することにした。文字の伝来については、次回以降に紹介したいと思う。必要だと思われる人名など、情報が欠落している部分については、専門家でない筆者が調べて補充した。誤りがあれば指摘していただきたいと思う。
 写真は、原著からスキャンしたものに、自動彩色したものである。

【本文】
 尚真時代の前後200年ほどが沖縄文化の黄金時代であったと言われます。すでに紹介したように、石城建築は日本よりずっと早く発達しており、この時代の石造、木造の建造物や彫刻は黄金時代の名にふさわしいものです。
 第一尚氏の時、首里城をはじめとし、その附近の庭園、那覇の諸寺、天久、八幡などの神社が建てられました。第二尚氏はこれを受け継ぎ、多くの寺社や石橋を作り、その技術は飛躍的に発達しました。石門、世持(よもち)橋、玉陵(たまうどぅん)などが代表的のもので、円覚寺や弁才天堂の石橋や世持橋のらんかんの彫刻などは傑作です(下の写真は円覚寺庭園の石橋です)。

04円覚寺庭園の石橋(カラー化)


 これらの作品を残した人の名前はわかりませんが、園比屋武御嶽(そのひやんうたき)の石門をつくった竹富島の技術者・西塘(にしとう)や首里城を築いた時の石大工で、徳之島の掟であった大八(おおはち)のような名人のことが伝えられています。掟とは、村長のような役人のことです。
 木造建築は、王城をはじめ円覚寺その他の大建築、多くの貴族の住宅がつくられました。中でも円覚寺は鎌倉の円覚寺にならって建設され、戦前には総門をはじめ9件が昭和8(1933)年に国宝に指定されましたが、沖縄戦ですべて焼失しました。現在は総門が復元されています。

【原文】
二、文化の輸入と発達
 それではどんな文化が入って来てどのように発達したか。
 文字は平がなが十二世紀ごろに入って来ますが、日本で一ぱんにつかわれてから四百年あと、漢字は仏教とともに英祖時代(十三世紀)で日本よりは七百年ばかりあとです。ところが石城などは日本よりずっと早くはったつしています。
 これらの文化は沖繩でひとりでに成長したのもあれば、日本・中国から入ったのもあり、南方の技術をまなんだのもあります。
 沖繩の文化はだいたいこの四つの源から出たものですが、日本の文化でも、中国の文化でも、外国から入ったものが少くありません。例えば仏教は印度からヒマラヤ山脈をこえ中国・朝鮮をへて日本にわたり、それから沖繩にきています。
 尚真時代の前後二百年ばかりのあいだが沖繩文化の黄金時代であったといわれるが、木造・石造の建造物や彫刻はたしかにそのとおりです。
 第一尚氏のときに首里城をはじめとしその附近の庭園、那覇の諸寺、天久、八幡などの神社がたてられ、第二尚氏はこれをうけつぎ、多くの寺社石橋をつくり、その技術はすばらしいいきおいですゝんで石門、世持(よもち)橋、玉おどんなどが代表的のもので、円覚寺や弁才天堂の石橋のらんかん、世持橋のらんかんの彫刻などもすばらしいけっさくです(下の写真は円覚寺庭園の石橋です)。これらの作品をのこした人の名は知れないが、そのひやんお岳の石門をつくった武富島(ママ)の「にしとう」や首里城を築いた時の石大工、徳之島の掟某氏のような名人のことが伝えられています。掟は今の区長のような役目です。
 木造けんちくは、王城をはじめ円覚寺その他の大建築、多くの貴族の住宅がつくられました。
 その中でも円覚寺がもっとも美しく、建てものの配置、手法などりっぱなものです。

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