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なにわの近現代史 Part 1 ③「明治の『万国博覧会』」

 昭和 45(1970)年に千里丘陵で行われた「万博」。世界から大勢の人が大阪へやって来ました。「てんぱく」や「花博」も大阪で行われた博覧会ですが、万博に匹敵するくらいに浪速っ子を興奮させたのが、第5回内国勧業博覧会です。
 第1回の内国勧業博覧会は、明治10(1877)年に東京開催されました。その後2回は東京で、第4回は建都1100 年を記念して京都で行われました。
 「今度は大阪や!」
 日清戦争後の不景気にあえいでいた大阪財界は、経済復興の起爆剤として博覧会に期待していました。高崎親章知事を先頭にした招致運動が功を奏し、南区(当時)天王寺今宮、堺水族館の2会場において、明治36 年3月から5ヶ月にわたって開催されました。
 それまでの内国勧業博覧会は、国産品の見本市的な要素が強かったのですが、この大阪の博覧会は、初めて海外からの出展があり、明治天皇は7 回も行幸されています。まさに「明治版・万国博覧会」でした。
 会場建設を請け負ったのは新進業者の大林組。無数の色電球によるイルミネーション、22.5m の大噴水、杉材とトタンで造ったハイカラな(この言葉が流行ったのも、この時だったといいます)建物も、全て15ヶ月の突貫工事で完成させたものでした。
 さて、開会と同時に博覧会は連日の大盛況。人気を呼んだのは英国、アメリカ、フランス、ドイツなどの先進国から出展された「ハイテク」を駆使した展示品でした。後に乗合自動車になった蒸気自動車「パンバー号」、カメラ、タイプライター、そして300 ㎡の「大冷蔵庫」。見物用とはいえ、ちゃんと製氷、冷蔵機能を備えていました。50 人が一度に入ることができまし
たが、見物人の熱気で冷却装置がきかなくなり、大扇風機で空気を冷やすといった一コマも。
 「アイスクリン」の売場にも長蛇の列。余りの人気に会場通行の妨げになると、発売中止になってしまいました。茶臼山の池に水しぶきをあげてボートが滑り落ちるウォーターシュートには、日頃はおしとやかな明治の女学生もスリルを求めて列を作りました。
 8月18 日。当時対立を深めていたロシアのアレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(Aleksei Nikolaevich Kuropatkin)陸相が会場を訪問しました。彼は対日開戦回避を考えていたのですが、この訪日中に、ロシア宮廷では主戦派が彼を出し抜いて、皇帝ニコライ2世(Nikolai II)を丸め込んでいたのでした。
 開戦への足音は確実に近づいていたのです。
 ところで、クロパトキンが注目したのは日本の工業製品や軍需品ではなく、切り干し大根、わさび漬け、椎茸、干ダラ、スルメなどの保存食品で
した。戦争回避を願っていた彼でしたが生粋の軍人として、「兵糧」への興味はつきなかったようです。
 閉会後も天王寺の会場はその後、天王寺公園と新世界ルナパークとなり、堺の水族館は継続して公開され、その後も長らく大阪の名所となりました。

連載第3回/平成10 年5月2日掲載

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