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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第14章 欧米人と沖縄③

3.最初の宣教師とその挫折

【解説】
 ベッテルハイムについては本人が膨大な記録を残しており、ロマンやファンタジーを抜きにした、科学者の目を通して見た当時の琉球のありのままの姿が、重要な一次資料となっている。ベッテルハイムは、ユートピアに来たつもりが、悪政はびこる奴隷制社会に来た、簡単に言えば、「バジル・ホールに騙された」と思っていたことだろう。接待を受けたホールと、まぁ、琉球にとってはPersona non Grataであるべきベッテルハイムとでは、もちろん、滞在期間も違えば目的も違うふたりを単純比較はできない。ホールのそれはちょうど、冷戦華やかなりし頃に、招待旅行で中国を訪れた社会党(当時)の理論的指導者であった向坂逸郎が「新中国にはハエがいない」などという、トンデモ・レポートをしたためていたのと同じ類だ。
 ベッテルハイムのことは、研究している人も多いようで、面白い事実も出てきたので、ちょっと勇み足かもしれないが、文章が短かったこともあり、筆者がかなり筆を入れた。
 ちなみに、今も那覇市泊には「仲地胃腸クリニック」という病院がある。ベッテルハイムの教えを受けた医師の末裔なのだろうか。

【本文】
 帰国したマレー・マクスウェル艦長は、1846年にイギリスから宣教師を送り込みました。バーナード・ジャン・ベッテルハイムです。ベッテルハイムはハンガリー王国の首都だったポジョニュ(現在のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)で生まれたユダヤ人です。イタリアで医学を修めたあと、任地のトルコでキリスト教に改宗しました。イギリス人と結婚し、帰化してイギリス国籍を取得していました。
 イギリス船スターリング号に乗り、香港経由でやって来たベッテルハイムは、妻子と漢人の通訳と雑用係を連れていました。当時沖縄では、キリスト教は禁じられていました。王府の役人は断ったのですが、いやおうなしに彼らを残していったので、やむを得ず、ベッテルハイム一家を波の上の護国寺に住まわせました。
 ベッテルハイムは、バジル・ホールの著書などから、沖縄を地上の楽園のように思っていましたが、やってくるとすぐに、王府の悪政、奴隷のような庶民、そして、不衛生な環境から来る流行病などの現実に驚きました。
 それから8年間、彼らは孤独な戦いを続けました。那覇の人々は、眼鏡をかけたベッテルハイムを「波の上の眼鏡(がんきょう)」と呼び、親しい目で見ていましたが、王府の役人は、いつも彼のあとをつきまとい、その活動を見張っていたので、町の人に近づくことすらできませんでした。
 8年間でひとりも信者を得られなかったベッテルハイムでしたが、琉球語をマスターしたベッテルハイムは、聖書の琉球語訳を行い、刊行しています。医師としては泊の仲地紀仁(なかち・きじん)に接種を伝えるなど、西洋医学に基づく医療にも従事しました。
 1854年にアメリカのマシュー・ペリー一行が沖縄を訪れた際に、ベッテルハイムは艦隊と行動を共にし、沖縄を離れました。その後アメリカにわたり南北戦争に従軍したベッテルハイムでしたが、沖縄でも見せていた頑固な性格などが災いし、軍法会議で除隊処分になったという記録が残っています。

【原文】
 一八四六年、イギリス船が那覇にきて、一人の英人とその妻子、中国人二人(通訳と小使)を、おいて帰りました。この人がベッテルハイムです。マクスウェル大佐たちは琉球にキリスト教をひろめたいと考え、熱心な信者で、立派な医者であるベッテルハイムをつかわしたわけです。
 沖繩の方ではキリスト教は、まだ禁じられているので、役人たちはきびしくことわったが、いやおうなしにのこして行ったので、この一家を波の上の護国寺にすまわせました。
 それから八年間、政庁の妨害とたたかいながら神の教をとくベッテルハイム夫婦の忍苦の生活がはじまります。ベッテルハイムは、沖繩語をおぼえ、ねっしんに布教したが、八年のあいだに、一人の信者さえもえられませんでした。
 町の人、は「波上の眼鏡(がんきょう)」といって、親しい目で見ていたが、政庁の役人は、いつも彼のあとをついてまわり、かれの活動を見張っているので、町の人に近づくことができません。
 ベッテルハイムは、聖書を沖繩語で訳し、香港で出版しているが、これだけが、この人の事業として、今日までのこっています。



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