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なにわの近現代史 Part 1 ⑨「史上唯一の『浪速シリーズ』」

 大阪のチームでプロ野球日本一を争ったこと が、過去に一度だけあります。昭和39(1964) 年の、阪神タイガース対南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)です。 
 藤本定義監督率いる阪神は、昭和37年に2リーグ分裂後初優勝しましたが、東映フライヤー ズ(現北海道日本ハムファイターズ)に日本シリ ーズで敗れました。その2年後のこのシ ーズンは、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)がほぼ優勝を手中に収めたかに見えたのです が、阪神は驚異の粘りで大洋戦4連勝を含む8連勝で、逆転優勝を決めたのでした。 
 一方、鶴岡一人監督率いる南海は日本シリー ズの常連。この年も9月19 日に既に優勝を決め、対戦相手が決まるのを待ちかまえていまし た。
 阪神は、ジーン・バッキー(29 勝=最多勝、防御率1.89=防御率第1位)、村山実(22 勝)、 小山正明との「世紀のトレード」で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)からやってきた山内 一弘(31本塁打)、吉田義男(3割1分8厘、23 盗塁)らが中心のチーム。南海の主力選手は、 ジョー・スタンカ(26勝=最多勝)、杉浦忠(20 勝)、野村克也(41 本塁打=本塁打王、115 打点=打点王)、広瀬叔功(3割6分6厘=首位打者、72盗塁=盗塁王)ら。奇しくも、両チームとも外国人エースを擁していました。 
 シリーズは阪神が優勝を決めた翌日、10 月1日から熱戦の火蓋が切って落とされました。初戦は南海、第2戦、第3戦は阪神、第4戦は南海と、激しいデッドヒート。第5戦はもうひとりの外国人投手ピート・バーンサイドの力投とバッキーの好リリーフで阪神が王手をかけたのですが… … 。続く第6、7戦に、「蒸気機関車の運転免許」 を持つというスタンカが連投し、まさに機関車並みの、2 日連続完封勝利という離れ業をやってのけ、阪神の日本一はまたもお預けになりました。 その夢は、指揮官となって帰ってきた吉田監督の下、昭和60年にようやく叶うことになります。
 最終戦で明暗を分けた両軍でしたが、優勝旗を手にした南海は、野村監督時代の昭和48年を最後に優勝から遠ざかり、長らくBクラスに低迷した後、昭和63年10月15日、その歴史にピリオドを打ちました。すり鉢型の観客席がちょっと怖かった大阪球場も姿を消しました。 両外国人エースはその後も活躍し、そろって通算100勝を手にしました。しかし、スタンカは 長男を不慮の事故で喪い、バッキーは読売ジャイアンツの荒川博コーチとの乱闘事件で指を骨折して選手生命を縮め、二人とも失意のうちにチームを去りました。
 ところで第7戦までもつれ込んだ日本シリーズでしたが、入場者は第4戦(大阪球場)の 30,107人が最高で、南海が2度目の日本一を決めた10月10日の最終戦(甲子園球場)には、 日本シリーズ史上最低の15,172 人しか観客はいませんでした。実はこの日、全国民の注目の中、東京オリンピックの開会式が行われていたのからです。
 2021年は2度目の東京オリンピックが行われる予定ですが、2度目の「浪速シリーズ」は実現していません。

連載第9回/平成10 年6月13 日掲載

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