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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第17章 廃藩置県(上)③

3.台湾出兵

【解説】
 なかなか先に進めない。多忙を極めていたのは前回書いたが、この火曜まで、部活の引率で土日がつぶれ、18日間休みがなかった。ようやく先週末一息ついたのだが、別の原稿依頼に対応していたり、子供を久しぶりに遊びにつれて行ったりして、こちらにまで手が回らず、今日になってやっと重い腰を上げたという感じだ。
 ただ、投げ出したわけではない。こういうものは勢いが必要なのだ。
 このプロジェクトは、自分では沖縄の将来のために重要だと思っている。歴史を知らない特亜のようにならないためにも、日本人は自分の歴史を正しく学ばねばならない。しかし、学校現場では歪んだ歴史が教えられ、さらには通史教育の破壊が行われている。そんな中で、蟷螂之斧ではあるかもしれないが、こういう試みは重要だと筆者は思っている。
 さて、「生蕃討伐」のタイトルは、国史的にはそのまま使いたいところだが、これは中学生向けの入門書ということなので、差し障りがない教科書用語に変更した。
 台湾出兵は、琉球の帰属について、重要なポイントとなっている。仲原はわかりやすくそこをついている。筆者はそこを強調するために「日本国琉球漁民」のエピソードを挿入したが、この事件については、もう少し詳述する方がよいかもしれない。

【本文】
 政府が廃藩をすぐに実行しなかったのは、大きな理由があります。
 琉球王は、数百年前から明清の皇帝から冊封を受けて属国となっており、最後の王・尚泰も1866年に冊封を受けていました。日本政府としては、清との関係をはっきりと断絶してしまわなければ、他の府県と同じ制度にはできないと考えていたからです。
 ちょうどその頃、宮古との間を往復していた船が台湾の東南岸に漂着し、琉球の漁民69人のうち、54人が台湾原住民に殺害された事件が起こりました。
 政府は清国政府にかけあいましたが、誠意が認められなかったので、明治7年5月、陸軍中将西郷従道が3600余人の兵を率いて台湾に出兵し、原住民を討伐し、これを降伏させました。
 清国は慌てて、日本が出兵した理由を認め、軍費と遺族の慰問金を出しました。その際、清国政府が出した外交文書には「日本国琉球漁民」をいう文言がありました。つまり、琉球の住民の生命財産を保護する責任は日本であることを認めたということになります。以後清国が琉球のことにくちばしを入れることができないようになったということです。
 これを確認した政府は、いよいよ明治8年から琉球の改革に取りかかりました。

【原文】
二、生蕃討伐
 政府が廃藩をすぐに実行しなかったのは、大きな理由があります。
 琉球の王は、数百年前から中国の皇帝から冊封(さっぽう)をうける習慣になっていることは前に述べました。最後の王、尚泰も七年前(一八六六)に、冊封をうけています。日本政府としては、中国との関係をはっきりと、たち切ってしまわなければ、他府県とおなじ制度には出来ないと考えていたからです。
 ちょうど、そのころ、宮古がよいの船が台湾の東南岸にひょうちやくして、沖繩人六十九人の中五十四人が生蕃のためにころされた事件があります。
 政府は中国政府にかけあったが、誠意がみとめられないので、明治七年五月、陸軍中将西郷従道(つぐみち)に命じ、兵三千六百余をひきい、台湾にわたり、生蕃をとうばつさせ、これを降伏させました。
 中国は、日本の出兵の理由をみとめ、軍費と遺族の慰問金をだし、この事件はおわります。つまり、琉球の住民の生命財産を保護する責任と、力をもつものは日本であることをみとめさせ、今後、中国が琉球のことにくちばしを入れることが出来ないようにしたわけです。
 政府はいよいよ明治八年から琉球の改革に取りかかります。

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