教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第17章 廃藩置県(上)②
2.琉球藩設置
【解説】
4月から勤務先が変わり、多忙を極めていて先に進めなかった。GWでようやく一息つくという状態で、今後もインターバルがあいてしまいそうだが、コツコツ最後まで仕上げていきたいと思う。
内容に特に問題はない。琉球藩設置の前後に派遣された使節を、明治新政府は大いに啓蒙しようとしたが、琉球側は全くそれを見ても動こうとはしなかった。風雲は既に急を告げていたのだが、危機感はまったくなかったようだ。逆にここで改革に着手する姿勢を見せ、政府の方を揺さぶるような動くができておれば、沖縄の未来も変わっていたかも知れない。しかし、為政者は、既得権の維持と保身だけしか考えることができないでいたのである。
【本文】
鹿児島県の役人が王府に行った助言は、瞬く間に知れわたり、人々は1日も早く改革が行われるように待ちあぐんでいました。一方王府の方ではあれこれと相談を重ね、2カ月たってようやく政治を改革する返答をしています。
鹿児島県庁は政府の内意をうけ、新政の祝賀のため、国王の代理を上京させるようにと勧めて来たので、正使・伊江朝直、副使・宜湾朝保ほか35人が、迎えに来た汽船で上京しました。
伊江は王の叔父で、王子の位をもつ摂政(沖縄では「しっしー」「せっせい」と読みました)、宜湾は三司官で、和歌の世界では内地にも知られてい
る人物です。
明治5年9月、明治天皇に祝辞を申し上げる儀式が行われました。天皇から「尚泰を藩王となし、華族に列する」という勅語を賜り、正副使はこれを謹んでお受けしました。この時から琉球は独立した藩となり、鹿児島県の管轄をはなれましたが、内務省が管轄だった府県とは異なり、外務省の管轄でした。
使節一行は、軍艦に乗って横須賀製鉄所を見学した後横浜に回り、そこから、開通したばかりの汽車にのって、束京に帰りました。政府は、開け行く日本の姿を見せて、一行を教育するつもりだったようです。
また明治天皇のご発案で、皇居内で和歌の会が開かれました。皇族、大臣、華族に加え、薩摩出身の八田知紀(はったとものり)ら20数人が招かれました。八田は宜湾の歌の先生で、当時は宮内省に勤めていました。宜湾はその時、明治の御代をことほぎ、忠誠を誓う意味の歌を詠みました。
使節一行が沖縄に帰ると、首里ではこれを非常に喜び、すぐに謝恩使を上京させ、お礼を述べさせました。旧王府側は、この時点では、琉球国から琉球藩になっても、今まで通りのやり方で、何の改革も行わなくてもよいとでも思ったのでしょう。翌年正月には、首里と那覇の士族100人余りを首里城内に集め、藩王も出席して大きな歌の会を開き、ひと時の平穏を楽しみました。
【原文】
政庁ではあれこれとそうだんをかさね、二カ月たってようやく政治を改革する返答をしています。
奈良原等の忠告は電波のように人民のあいだに知れわたり、一日も早く改革が行われるように待ちあぐんでいました。
又鹿児島県庁は政府の内意をうけ、新政のお祝のため、代理を上京させるようにとすすめて来たので、伊江朝直(ちょうちょく)(正使)宜湾朝保(ぎわんちょうほ)(副使)外三十五人が、むかえに来た汽船で上京しました。
伊江は王の叔父で、王子の位をもつ摂政(せっせい(ママ))、宜湾は三司官、和歌では日本にも知られている人です。
五年九月、天皇にお祝を申上げる式が行われ、天皇は「尚泰を藩王となし、華族にする」という勅語をたまわり、正副使はこれをよろこんでお受けしました。
琉球はこの時から鹿児島県の管轄をはなれ、政府の支配になるが、まだ他の府県とは別あつかいで、外務省の管轄でした。
使節の一行は、軍艦にのってよこすか(ママ)製鉄所を見学し、よこはま(ママ)にまわり、ここから、開通したばかりの汽車にのって、束京にかえりました。政府では開け行く日本のすがたを見せて、この人たちを教育するつもりだったと見えます。
又天皇陛下のお考えで、皇居内で和歌の会があり、八田知紀(はちたとものり、ママ)(さつま(ママ)の人で宜湾の歌の先生、当時は宮内省につとめていた人)をはじめ、皇族、大臣、華族廿余人あつまり、宜湾も明治の御代をことほぎ、忠誠をちかう意味の歌をつくりました。
使節の一行がかえると、首里ではひじょうによろこび、すぐに謝恩使を上京させ、お礼をのべさせました。琉球国から琉球藩になっただけで、改革も何も行わないでもよいと考えたのでしょう。
翌年正月には、首里那覇の士族百余人を、首里城内にあつめ、藩王も出席し、さかんな歌の会を開き、天下泰平をたのしんでいます。
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