教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第17章 廃藩置県(上)⑤
4.政府の改革命令
【解説】
長らく離れていたので、この項を飛ばしていた。どうも話が続かないと思っていた読者もいたことだろう。筆者自身は通してよんでいるので、気が付かなかった。失礼。
相変わらず、因循姑息の連中の所業が淡々と描かれている。教科書や歴史漫画などでも見たことがあるが、この頑固党を筆頭とする連中を愛国者と美化して描くことが多い。とんでもない話だ。私利私欲のために、沖縄の人々を搾取するシステムを継続させようという考えを持つ連中が愛国者なのか? 全く、沖縄左翼は倒錯している。まさにこの連中は人民の敵ではないか。明らかに日本の官憲は解放者ではないか。
もう、図式というか、被害者史観に基づくストーリーが出来上がっているから、歴史の真実などどうでもいいのだ。そこの枠からはみ出してしまうことなど、あり得ない話なのだ。これは、朝鮮や中共の歴史と同じだ。彼らにとって歴史は真実ではなく、プロパガンダなのだ。沖縄にいる日本人(こういう輩を在日日本人と呼ぶ)が、その同じ低レベルで下劣で、知性のかけらもない戦略で自らの歴史を語るのが情けない。
【本文】 松田以下政府の官吏、池城以下琉球の官吏が、7月10日に那覇に着きました。これからどうなることかと、沖縄の空気は、にわかに緊張していました。当時政庁の責任者は、摂政伊江朝直、三司官は浦添朝昭、地城安規、富川盛奎の3人で、明治5年、伊江の副使として上京した宜湾朝保は、8年5月、病気退職しています。
前年の正月には、城内でさかんに歌の会なども催し、楽しんでいたところが、この年の正月は政府から呼び出しがあったので、政庁では何事がおこったかと驚き、各地のお寺やお嶽に願をかけて待っていました。そこへ、地城らが帰り、政府の意志を伝達しました。王は驚きの余り、食事も喉を通らず、病人のようになってしまいました。
松田一行は首里城に行って、藩王尚泰の代理である今帰仁朝敷(なきじんちょうふ)以下、数十人の官吏をあつめ、政府の命令を読みあげました。
一、清国への進貢と冊封をやめること。
二、明治の年号をつかうこと。
三、摂政、三司官の制度を改め大参事、権大参事等をおくこと。
四、刑法を日本のものに改め、これを研究するため係の者三名を上京させること。
五、学問研究のため青年10人を上京させること。
六、謝恩のために藩王が上京すること。
七、守備隊をおくこと。
以上の七ヵ条でした。
政庁では、四、五、七の3つは、すぐにお受けするが、外のことはゆるしてもらいたいとの歎願文を出します。
それから、嘆願、説得をくりかえすこと十数回、2か月に及んでも話はまとまりません。
前三司官亀川盛武を中心とする頑固党の一派が強硬に反対したためです。
いよいよ命令を奉ずるか、拒絶するか、最後の日が来ました。
病中の藩王は決然と命令を奉ずることを決定しました。
藩王の決定を聞いた頑固党は泣きわめき、士族たちも大騒ぎです。
伊江摂政等は藩王の手紙を松田に届けに行く途中で、数百人の士族たちに包囲されて行くことができず、城中に引き返し、その結果藩王も決定を取り消してしまったのです。
松田もこの騒動で考え直し、「今一度、藩王の代理を上京させて歎願し、それでも、受け入れられない時は命令を奉ずる」との約束で、池城等をつれて引きあげました。
もちろんこの歎願が取りあげられることはありませんでした。
明治9年に、熊本、福岡などで不平氏族の反乱がおこり、また10年には西郷隆盛が西南戦争をおこしました。翌年には、大久保利通の暗殺があり、琉球のことは、しばらく、そのままになっていました。
その間、琉球側は姑息な手段を弄していました。清国に密使を出して助けを求めたり、東京のイギリス、アメリカ、オランダの公使に訴えたり、しきりに運動を行っていたのです。
これを見た政府は、今度こそ断然と処分する決意をかため、再び松田は政府の命を受けて、沖縄にやってきました。
【問題】
一、政庁の役人が改革を嫌った理由は何でしょうか。
二、首里城内で歌会をするなど、琉球の上層部が喜んでいたのはなぜでしょうか。