教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第8章 王国時代前期の文化⑤
6.生活用品
【解説】
勿論、今日の専門家はもっと詳しく研究を進めているのかもしれないが、本書では時期を特定できない、あいまいな記述が多い。記録が乏しいのは、文字の伝来、使用が遅すぎたことと関係があるだろう。そういった点で、日本の本土でかなを発明していたことは、もっと評価されてもよいのではないかと思う。
相変わらず文のまとまりがつかないので前後をかなり整理した。この項についても、いずれ大幅に加筆したいところである。
【本文】
那覇の壷屋で陶器が生産されるようになったのは1682年のことです。しかし、それ以前に美里の知花などで焼物が作られています。羽地の古我地の窯のあとからは南方系の焼物のかけらが出土しています。おそらく、酒を入れる甕(かめ)のような素焼きの日用品や、釉薬(うわぐすり)のかかった粗末な陶器は沖縄でも焼かれていたと思われますが、品質の良いものができるようになるのは、18世紀以降になります。陶磁器は明との貿易でさかんに輸入されていましたが、製法を学んでいたかどうかはわかりません。
織物は白と藍染の無地ものが主流で、かすりや紅型(べにがた、びんがた)のような色染めの技術は発達していません。
材料は真苧(まお)、巴蕉布などで、木綿や絹はありません。那覇の市場には、東南アジアから輸入された美しい南蛮更紗(なんばんさらさ。インド起源の色模様染めの綿織物)が並んでいました。神女たちは「えがきみはね」という様々な絵模様を描いた着物を着用していましたが、これは型染ではないと思われます。明からは緞子(どんす)などの高級な着物が輸入されましたが、その機織りの技術はまだ伝来していません。
【原文】
陶磁器は中国との貿易でさかんに輸入されたが、これを焼く技術をまなんだかどうかは問題です。
那覇の壷屋で陶器がやかれる(一六八二)前に美里の知花、その他でそうとうによい焼物がやかれており、又羽地の古我地のかまのあとからも南方系の焼物のかけらが出たといわれています。おそらく日用の雑品、たとえば酒がめのような素焼や、うわぐすりのかゝったそまつな陶器はやかれたことでしょうが、よいものが出来たのは次の時代です。
織物はどうか、これら当時はまだ白と藍染の無地ものがおもんじられ、かすりとか紅型のような色染めはすゝんでいません。
材料は、真苧(まお)・巴蕉布などで木棉・絹はありません。那覇の市場にはきれいな南蛮更紗がならべられており、神女たちは「えがきみはね」というきもの、いろいろの絵模様をかいたものをほこらしげに着ていますが、型染ではないでしょう。中国から緞子(どんす)その他の高級な着物がきているが、これをおる技術はまだ来ていません。これらは次の時代にのこされています。