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大正時代を知っていますか?⑧ 軍縮とその影響

 大正7(1918)年11月、長かった第1次世界大戦が終結しました。総力戦で世界中が疲弊したこともあり、戦後は国際協調と軍縮がトレンドとなりました。明治以来、富国強兵を旨としてきた我が国も例外ではありませんでした。
 海軍の軍備に関しては、大きな軍縮会議が開かれました。大正10(1921)年のワシントン会議です。ウォーレン・ハーディング大統領の招きに応じて原敬内閣が派遣した首席全権は、加藤友三郎海相でした。開会早々、ヒューズ国務長官から、「米英日の主力艦の比率(トン数)を10対10対7とする」という爆弾提案が飛び出しました。大戦で疲弊している英国がこれに応じるのは間違いありません。日本の出方が注目される中、加藤全権は、「米国案の崇高な理念に賛同する」と演説し、万雷の拍手を浴びました。こうして、主要国による海軍軍縮条約はめでたく結ばれることになりました。
 会議では、さらに2つの条約が結ばれました。ひとつは「4ヶ国条約」です。これは日英米仏の4カ国が太平洋の現状維持を約束したものですが、これが結ばれた結果、明治35(1902)年以来日本外交の土台であった日英同盟協約が廃棄されました。存続論も根強かったのですが、大戦中に、要請したにも関わらず、日本が陸軍を欧州に派遣しなかったことに対して、英国が
不満を持っていたことが、廃棄に大きく作用したといわれています。もうひとつは、中国に関する「9ヶ国条約」です。これにより、米国が日本の満州に於ける特殊権益を認めていた「石井=ランシング協定」が廃棄され、無責任な多国間条約に取って代わられることになりました。
 ワシントン会議は米国外交の大勝利でした。そして我が国と英国を離反させることによって、日米戦争の可能性が現実のものとなったのです。
 一方軍縮の波は陸軍も例外としませんでした。大正11年7月に、山梨半造陸相が軍縮計画を発表し(山梨軍縮)、大正14 年5 月には、宇垣一成陸相が、高田(新潟県上越市)、豊橋、岡山、久留米の4個師団廃止を断行しました(宇垣軍縮)。
 「失業」した将校は、中等以上の学校に配属され(配属将校)、軍事教練の教官となりました。学生は240 時間の教練を修了すると、幹部候補生の受験資格を得られました。この制度は、学校で軍事教育を行ったということだけで批判されますが、軍のリストラ対策としての窮余の策だった面もあるのです。
 ところで 、このような軍縮の流れの中で、国民の軍人に対する考え方は大きく変化しました。日清・日露戦役の英雄から、一気に「無用の長物」扱いです。もちろんそこには、シベリアへの長期出兵など、政策上の失敗の影響もありましたが、命を賭けて国防を担っている軍人に対して、あからさまに軽蔑の目を向け、軍服を着ているだけで批判の対象にするということもあったといいます。明らかに過剰反応でした。
 この一部国民の幼稚な態度は、今日の自衛官に対する、左翼市民の冷たい目と態度に匹敵するように思われます。
 昭和に入ってからの軍人の横暴な行動の裏には、冷飯を食わされた時代の遺恨もあったような気がします。

連載第23 回/平成10 年9月19 日掲載

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