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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第16章 王国末の社会と政治①

1.王国末の社会の矛盾

【解説】
 沖縄の歴史を目にすると、王国時代を美化したがる傾向がある。勿論、郷土に誇りを持つことは悪いことではない(それでいて愛国心がないのは不思議な矛盾だ)が、現実を見ずに、嘘でまみれた王朝絵巻をありがたがり、あたかも薩摩や明治政府やアメリカ軍がそれを破壊したかのように描くのは、明らかに誤りだ。まるで韓国のテレビドラマの時代劇を見ているようだ。近代以前のかの国の下層階級の姿は、当時の愛国的な韓国人の政治家をして「豚と同じ」と言わしめているのだ。しかし、テレビ時代劇はそれを厚化粧で完全に覆い隠している。沖縄県民にはそのような愚行をまねしてほしくないと思う。エンターテインメントにおける脚色は当たり前のこと悪いことだが、それを事実と信じ込むのは知性のある人のすることではない。
 それと正反対に日本の昔の時代劇は、逆に貧農史観に貫かれ、豊かになった江戸時代の農民という事実を一切提示しない。これも無知性のなせる業だ。
 いよいよ王国の崩壊過程である。仲原の筆致は淡々と進む。美化でもなく、恨みつらみでもなく、日本礼賛でもない。事実を伝えようとしている。その点を筆者は高く評価したい。

【本文】
 明治維新という大変動の中から生れた日本の新政府は、実力のある若い下級武士が中心となって、次々と近代的改革を行っていきました。その時、今の沖縄県にあった琉球国は、まだ、支配階層の人々が、昔からのシステムを残したままにしておこうとしていました。本土と同じように、大改革を進め、住民みんなが活発に活動できるようにならなければ、近代の国際社会の中で埋もれていくのは当然のことです。琉球の政治家は、そのことに気づいていませんでした。
 王国の末期の1860年前後になると、幕府や諸藩と同じように、いや、それ以上に琉球の政治経済は行き詰っていました。
 王国ができたころには、人々は貴族、士族、平民の3階級にわかれ、富の分布も、ほとんどこの身分と一致していました。しかし蔡温時代の1750年頃になると、下級士族に失業者が多くなったので、蔡温は彼らに農工商業を奨励し、この問題を一応解決しました。これはすでにお話しした通りです。しかしそれは、平民を苦しめる改革でもありました。 
 それから100年のあいだに、那覇を中心として、商工業がさかんになり、貨幣経済は浸透し、本島の農村(奄美大島、先島は除く)にも行きわたりましたが、その結果、都会も農村も貧富の差が激しくなっていきました。
 王国末の沖縄社会も、やはり3つの階層に大別できました。
 豊かなのは、農村に領地を持つ貴族と那覇の富商(質屋、金貸し、仲買人、家主)などの人々です。貧しいのは公有地を割り当てられ、重い租税を負担していた農民(全人口の70%以上を占めます)、そして失業したり、安い給料で雇われている下級士族、金持ちの下男下女といった人々です。この中間にいるのが、官吏、商工業者と富農ですが、数はそれほど多くはありません。
 本土でも江戸時代の農民は人口の70~80%を占めていましたが、幕末には農民が納める租税(年貢)は、10〜20%と非常に軽いものとなっていて、沖縄の農民よりよりははるかに豊かな生活を送っていたのです。もちろん、沖縄におけるこのような社会構造は健全なものではなく、安定したものでもありませんでした。

【原文】
第十六章 王国末の社会と政治
一、不安定な社会
 明治維新という大変動の中から生れた新政府は、はつらつたる元気をもって、つぎつぎと改革をおこなってゆきます。琉球国という、われわれの郷土は、その時もまだ、もとのままの封建的な国としてのこっています。しかし、これも、大改革をおこない、住民全体が、かっぱつにはたらくようにならなければ、世の中の進歩と歩調をあわせて行くことは出来ないはずです。
 王国の末ごろ(一八六〇前後)になると、ここも日本の幕府又は各藩とおなじく、あるいは、それ以上に行きつまっています。
 王国のはじめには、貴族、士族、平民の三階級にわかれ、富のていども、ほとんどこれと一致していました。しかし蔡温時代(一七五〇年頃)になると、下級士族に失業者が多くなり、きわめてこんなんな問題がおこりました。
 蔡温はこれらの人々に農工商業をしょうれいし、この問題を一おう解決しました。
(第十章)
 それから百年のあいだに、那覇を中心として、商工業は、ますます、さかんになり、貨幣の流通は農村にも行きわたり(大島、先島は別として)、都会も農村も貧富の差がはなはだしくなって来ました。
 この時代の沖繩の社会を見わたすと、次のような三つに区別されます。
(一)富みさかえているのは、貴族階級(農村を領地にもつ人々)と那覇の富商(質屋、金貸し、仲買、家主)たちです。
(二)これと反対に、公有地のわりあてを受け、おもい租税をふたんしている農民(全人口の七〇パーセント以上)、失業とわずかの給斜になやんでいる身分のひくい士族、それから、都市、農村で、下男下女となっている人、これらが生活にこまっている人たちです。
(三)右の二つの中間にある官吏、商工業者と、農村の富農たち。これも、しかしその数はそんなに多くはありません。
 右の分類は、きわめて大ざっぱな分けかたで、そのあいだに、少しずつ移動があるのはいうまでもないことです。
 このような社会は決して健康な、安定した社会ではありません。

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