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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第14章 欧米人と沖縄①

1.江戸時代に沖縄を訪れたヨーロッパ人

【解説】
 江戸時代のいわゆる鎖国と開国に軌を一にして、琉球にも欧米人が来航している。これは地方史レベルの話ではあるが、開国への胎動期に、太平洋岸に出没した欧米船のことを歴史教科書は記載しているのに、琉球へのそれは書かれていない。ペリーが沖縄を訪れていることすら、中学レベルでは書かれていないことも多い。来訪者の詳細な航海記も残されているのだから、もう少し触れられてもよいような気がする。
 仲原の記述で、初めて知ったことも多かった。非常に興味深い事件だ。ブロートン大佐については、少しリサーチして書き足した。末尾に出てくる二人の英国軍人については、次回以降詳述されるので、ここでは触れない。

【本文】
 実は、江戸幕府が管理貿易を強化し、いわゆる「鎖国」の時代に入る前には、沖縄にもヨーロッパ船が時々来航していました。
 徳川家康の家臣となり、旗本に取り立てられた英国人水先案内人のウィリアム・アダムズも、2度沖縄にきています。
 オランダ船リーフデ号の乗組員であったアダムズは、大西洋を横切り、南米をまわって、南太平洋のモルッカ群島(現インドネシア領)に行く途中、暴風にあって流され、関ケ原の戦いがあった1600年に豊後(今の大分県)に漂着したのです。
 アダムズは家康から、現在の神奈川県三浦郡に領地をもらい、三浦按針と名乗っていました。「按針」は彼の仕事である水先案内人を示しています。アダムズは、一緒に家康に仕えたオランダ人航海士のヤン・ヨーステンと共に、英蘭両国が日本と貿易できるように尽力しました。
 その後アダムスは英国船で、平戸からシャム(タイ)に行く途中、暴風のため那覇に立ち寄り、船の修理をしたり食料を買ったりしましたました。1614年のことです。1618年にコーチシナ(ヴェトナム)に行こうとした時にも、また暴風のため那覇に寄港しました。
 アダムズは幕府の許可を得ており、また沖縄を目指して来たわけではないので、特に問題が起こったという記録もありません。
 幕府が解禁政策と貿易の統制を厳しくすると、その後200年ほどの間は、沖縄にもヨーロッパ船は姿を見せませんでした。しかし、18世紀末ごろからから英国の東インド会社が清国との貿易に乗り出すと、日本にも関心を持つようになりました。英国戦が日本の沿岸に出没するようになると、沖縄にも姿を見せるようになりました。
 英国の軍人で沖縄をはじめて訪問したのはウィリアム・ロバート・ブロートン海軍大佐です。1797年5月16日、彼が乗ったプロヴィデンス号が宮古島(池間島)沖で座礁し、沈没してしたのですが、宮古島の住人が手厚く救助したことが、彼の手記に書かれています。ブロートンはその後、別の船で那覇港に寄った後、日本の本土に向かいました。

【原文】
一、オランダ船と沖繩 
 日本が鎖国になるまえは、ヨーロッパの船が沖繩にもときどききていました。
 徳川家康にかわいがられ、その保護をうけていたウィリヤム・アダムス(ママ)(日本名三浦披針)も二度沖繩にきています。アダムスはイギリス人ですが、オランダ船の水先案内となり、大西洋をよこぎり南米をまわって、モルッカ群島(南太平洋、フィリビンの南)に行く途中、暴風にあって一六〇〇年に日本に漂着しました。
 アダムスは徳川家康から、神奈川県の三浦郡に領地をもらい、三浦按針(みうらあんじん)と名乗っていました。按針は水先案内ということです。イギリス、オランダが日本で貿易をゆるされたのも、彼のたすけによるといわれます。
 アダムスはイギリス船にのり、平戸からシャムに行く途中、暴風のため那覇に立ちより、(一六一四)船の修理をしたり食料を買ったりしましたが、南方のコーチシナに行こうとした時(一六一八)にも、また暴風のため那覇に寄港しました。
 この人たちは沖繩をめざして来たのでないから、沖繩の政庁との間にとくべつな問題もおこりませんでした。
 それから日本は鎖国になり、沖繩にも二百年ばかりのあいだは外国船は見えないので、いつのまにか、ヨーロッパ人のことはわすれてしまいました。
十八世紀のすえからヨーロッパ人、ことにイギリス人が中国貿易にのりだし、日本にもきょうみを持つようになると、イギリス船が沖繩にもあらわれるようになりました。
     このころ、沖繩をはじめて訪問したのはブロートン大佐(一七九
    七)ですが、次に来たのはマックスウェル大佐(巡洋艦アルセスト
    号艦長)バジル・ホール大佐(砲艦ライラ号艦長)です。

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