見出し画像

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第14章 欧米人と沖縄⑤

5.フランス、ロシア、オランダとの条約

【解説】
 沖縄にペリーが来たことは、教科書の片隅に書かれていることもあるのだが、その他の国については、見たことがない。郷土史レベルでは、当然取り上げられるべきことだろう。仲原の筆は、フランスのやり口をやんわりと非難している。筆者の知識のないところだし、史料もすぐにはまとめられないので、文を整理をするにとどめた。
 琉仏条約について、沖縄の極左新聞のひとつ『琉球新報』が2015年2月8日付で「琉仏条約、仏にも原本 『琉球は独立国』」という噴飯物の記事をリリースしている。まず、条約を結ぶのだから、独立国だと認識していないわけがないではないか。だからこんなもの、ニュースでも何でもないのだ。おまけに仲原の文章を読めば、到底主権国家を相手にフランスが条約を結んだと認識しているとは思えない。新報が琉球が主権国家だと主張するなら、他国に胸ぐらつかまれて条約を結んだ哀れな主権国家の側面を報じるのが筋だろう。いずれにせよ、記者のレベルの低さがわかる。それとも、無知な読者をミスリードしようとしたのか。
 ペリーだって独立国だと思ったから条約を結んだわけだし、真実、つまり、琉球が日清の両属関係にあると知ったら、日米条約か日清条約に「沖縄の港を使わせろ」という条項をねじ込んでいただけだ。この愚かな記事の文末には、「沖縄の自己決定権拡大や『主権回復』を求める議論に影響を与えそうだ」と書いているが、まじめにこれを書いているのだろうか。そもそも日本国の一部である沖縄に主権などあるわけがない(主権とは絶対的な権力なのだから)。沖縄に限らず、地方財政が国の税金で賄われていることを知らないのか。それなのに主権だとか、自己決定権だとか、習いたての言葉を偉そうに使うなど、ジャーナリスト失格だ。地方自治や地方分権のはき違えも甚だしい。それとも主権の言葉の意味すら新報の記者は知らないのか。

【本文】
 江戸幕府は、アメリカに続いて、イギリス、フランス、ロシア、オランダと条約を結びました。それと相前後して、アメリカ以外の国々も、琉球に手を伸ばしてきました。
 フランスは最初、弘化元年(1844)と1846年に琉球に現れ、通商を求めましたが要求を拒絶されていました。
 琉球がアメリカと条約を結んだ翌1855年11月、ニコラ・ゲランが3隻のフランス船を率いて那覇港にやってきました。すでにアメリカとの条約を結んでいた琉球側も協議に応じましたが、200余人のフランス軍兵士が会議場を取り囲んでいました。会議では琉球側から修正要求を出しましたが、フランス側はこれに応じませんでした。そればかりかゲランは約40名の兵を投入し、琉球側の代表であった尚景保らを庭に引きずり出し、銃剣をつきつけて、強引にフランスの原案通りの条約に調印させました。これが琉仏修好条約です。
 幕府にとってロシアは重要な交渉相手でしたが、ロシアは、沖縄には特別の興味は持っていなかったようです。しかし、1854年の正月、ペリーの艦隊が日本を訪れている間に、エフィム・プチャーチン提督にひきいられた2隻の軍艦が那覇に来て、しばらく停泊していました。長崎で日本との談判を終わり、マニラに行く途中に立ちよったのです。
 提督の秘書官だったイワン・ゴンチャロフは有名な小説家です。彼は、プチャーチン率いる四隻からなる艦隊が、バルチック海の港を出てから、喜望峰を回り、シンガポールを経由して長崎に。その後、那覇、マニラなどを訪問して、に行き、さらに長崎を訪問、東シベリアのニコラエフスクに到達するまでの『フリゲート艦パルラダ号』という航海記を刊行しています。フリゲートとは、当時の巡洋艦のことで、艦型から来た名前です。
 この本の中で日本の部分は『ゴンチャローフ日本渡航記』の名で出版されています。そこには「琉球諸島」という一章があり、ゴンチャロフの鋭い眼光にうつった沖縄が、あたたかく、清らかな文章で描写されています。
 幕府とは17世紀からつきあいがあるオランダとも、1859年に琉蘭修好条約をむすんでいます。オランダは江戸幕府が貿易制限を厳しくしていたいわゆる鎖国の間も長崎の出島で貿易を許されており、西洋人は全て「阿蘭陀(オランダ)人」と呼ばれ、沖縄でも西洋人をすべて「ウランダー」と呼んでいました。

【問題】
1.幕末の時代、沖縄に来た有名な外国人の名前を挙げ、彼らの滞在期間、目的、成果などをまとめましょう。
2.欧米の国は、どうして沖縄と条約を結んだのでしょうか。
3.日米和親条約、日米修好通商条約と、琉米修好条約の内容を比較してみましょう。

【原文】
四、フランスその他の国
 フランス人は一八四四年に来て、貿易と布教を要求し、さらに二年後にもきて要求したがことわられました。
 今度は琉米条約の出来た翌年(一八五五)、軍艦三隻で那覇にやってきました。
 フランス人は、武力にうったえても条約をむすぶ決心を示し、二百余人の兵隊で会議場をかこんでいました。
 談判がすらすらと進まないので、数十人の兵士が庭からとびこんで来て、こちらの代表を庭に引きずり出し、銃剣をつきつけて、条約に調印させました。これがフランスとの条約です。
 ロシアは北にあるので、沖繩には、とくべつのきょうみはもっていなかったようです。しかし、一八五四年の正月、ペリーの艦隊が日本に行っている時に、プーチャチン提督にひきいられた二隻の軍艦がきて、しばらく、とまっていました。
 彼等は長崎で、日本との談判をおわり、マニラに行く途中立ちよったものです。
 提督の秘書官、ゴンチャロフは、名高い小説家です。彼は、プーチャチンのひきいる艦隊-四隻からなる-が、バルチック海の港を出てから、長崎に来て、日本との談判をおわり、那覇に立ちより、マニラに行き、さらに長崎を訪問、シベリアの東海岸に行きつくまでの航海記を書いています。
 「フリゲート、パルラダ号」がそれです。その中に「琉球諸島」という一章があり、ゴンチャロフの鋭い眼光にうつった沖繩を、あたたかい、清らかな文章でうつしてあります。
     バルラダ号は旗艦の名で、フリゲートは、当時の巡洋艦のこと、
    艦型から来た名前です。
     オランダも、四年後の一八五九年に、条約をむすびました。
     オランダは鎖国中も長崎の出島で貿易をゆるされていたため、日
    本でも沖繩でも、西洋人はすべてオランダ(ウランダー)といって
    いました。
【問題】
 一、アダムス、ホール、ペリーの三人について、沖繩に来た目的を述べな 
  さい。
 二、パジル・ホールは、どうして政庁のこのまない宣教師をおくったので
  しょうか。
 三、ウィリアム・アダムスはどんな人ですか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?