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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化⑧

3.音楽と芸能

【解説】
 少々長くなったが、音楽と組踊を分けてしまうと、組踊の記述が少なくなってしまうので、仲原の記述の通りとした。いつものように、読者の便宜を考えて文は大幅に入れ替えている。
 組踊については、まだ見に行くチャンスがないので詳しく書けなかった。いずれにしても、筆者は門外漢なので、多少リサーチをして補強したが、薄っぺらであることは自覚している。後日もう少し調べて書き加えたい。
 仲原は組踊の作家として「田里朝雲」という名前を挙げているが、ネット上ではヒットせず、代わりに「田里朝直」がヒットした。誤植なのか、別名なのかは判断しかねるのだが、朝直のデータ時代的にもマッチするので、こちらを採用した。詳細をご存じの方がいたら、ぜひご教示いただいたい。
 尚、三味線は、沖縄では三線とふつう呼ばれているので、そのように統一している。
 この項で、漸く上巻が終わりである。次回より、下巻に移る。

【本文】
 王宮には支那から哨吶(つおな。チャルメラの一種)や金皷(きんこ。仏教の儀式に使用する楽器。 銅製の扁平した円形で内部は空洞になっていて、打ち鳴らす)などが入ってきて、国王の行列が行くときに、これらを鳴らしていました。この行列のことを路次楽(るじがく)と言います。またこれらの楽器を使って、首里城で行われる儀式の際に支那の音楽を演奏することもありました。これを御座楽(うざがく)と言います。また将軍を表敬訪問する際の使節団がこの演奏を行ったので、街道沿いの民間芸能にも影響を与えたと言われています。
 ただ支那の音楽はあくまでも宮廷音楽なので、民間にははやりませんでした。
 しかし、今日の沖縄の音楽・芸能の骨組みができたのはこの時代です。それは民謡の伴奏楽器となる三線(サンシン)が伝わったからです。
 沖縄では昔から民謡がさかんでしたが、三線が入ってくるまで、楽器と言えば鼓(つづみ)が中心で、その外には笛や拍子木などがあるだけでした。 
 三線は尚清王、尚元王時代(1527~72)に大陸南部から入ってきた三絃(サンシー)という楽器が原型だと言われています。これが伝わるとたちまち各地にひろがり普及していきました。島津氏の侵攻の後、尚寧王が薩摩に連れて行かれた時には、三線や踊りの上手な人もお供もしています。  
 三線は沖縄に伝わったのち、すぐに日本に輸入されて三味線に進化し、形も奏法も改良されて日本の芸能にとっても重要な楽器となりました。
 間もなく三線の名人もあらわれました。羽地朝秀の従弟の湛水(たんすい。1623~83)は沖縄の古典音楽の基礎がつくったとされます。屋嘉比朝寄(やかびちょうき。1716~75)は王命で薩摩に留学して謡曲や仕舞を学びましたが、謡曲の技術を沖縄に伝え、三線の演奏にインパクトを与えました。また工工四(くんくんしー)と呼ばれる楽譜を作りました。現在230曲余りが記録されており、当時のものだけでも120曲もあります。小さな島々でこれだけの曲が生れたことは、人々が民謡をどれだけ愛したかということを示しているようです。
 古い時代からうたわれていた民謡には様々な形式があって、歌の型は一定していませんが、三線が伴奏楽器として使われるようになったころから、歌は「八八八六」の4句30字の定型となり、それに伴う踊りも、美しい型が次第に工夫されていきました。古い時代には、お祭りの時に神女を中心として踊ったものでしたが、時代が進むにつれて一般の人の踊りは、神女のものとわかれていきました。特に、三線が入って来てからは、全く分離されました。それでもまだ稲の取り入れがすんだ豊年祭の余興として舞踊をすることは盛んでした。日本本土でも、農村にしつらえられた舞台で、職業的芸人でない人が、歌舞伎を演じたという例もたくさんありますが、それと同じです。素朴であっても、明るく、楽しい内容のものが多いようです。沖庭では、首里、那覇という都市が生まれても、プロの芸人はいませんでした。しかし田舎の歌や踊りを、首里で洗練されたスタイルに昇華させて、それが田舎に逆輸入されるということも多かったと思われます。
 組踊は、日本の能・歌舞伎をモデルにして、沖縄の音楽と舞踊を組みあわせて誕生した舞台芸術です。首里の士族であった玉城朝薫(たまぐすくちょうくん。1684~1734)によって始められました。役人として芸能を担当していた朝薫は、江戸に2回、薩摩に3回渡っています。その時に、本土の能、狂言、歌舞伎などから多くのものを吸収しました。1717年に、与那城・金武の2王子以下170人の使節団が江戸に上った時に、朝薫も共に上京していますが、その翌年に組踊を作って初めて上演しました。その際、今まで素朴な沖縄舞踊しか知らなかった人々が、涙を流して感激したと伝えられています。
 朝薫のあとに平屋敷朝敏、田里朝直(たさと・ちょうちょく)らが組踊りを創作しています。しかし、演者はすべて素人だったので、その後進歩や改良が加えられませんでした。名優と呼ばれる人が登場するのは、明治になって劇場ができ、職業芸人が誕生してからのことです。

【問題】
 1.分野ごとに、この時代の文化をまとめてみましょう。
 2.和歌と琉歌の名曲を比べてみましょう。
 3.三線、組踊について詳しく調べてみましょう。
 4.当時の沖縄にプロの芸人がいなかったのはなぜでしょうか。

【原文】
三、音楽・芸能の普及 
 今日の沖繩の音楽・芸能の骨組みが出来たのもこの時代で、それは三味線がつたわったためです。三味線はおそらく尚清・尚元王時代(一五二七~一五七二)に南方から入ってきたらしく尚寧王がサツマにつれて行かれた時(一六〇九)には三味線やおどりの上手な人もおともして行っています。
 三味線は沖繩にきてまもなく日本にゆにゅうせられて都会の人々によろこばれ、形も奏法も改良せられ日本の芸能にとってはだいじな楽器となりました。
 沖繩では昔から民謡がさかんで、三味線が入ってくるまでは楽器はつゞみが中心でその外には笛とか拍子木などがありました。王宮には中国からツオナ(チヤラメル)(ママ)とか金皷(きんこ)などの楽器が入ってきて路次楽といって王の行列にもこれをならしていました。又これらの楽器をつかって中国の明・清の音楽(座楽)をやることもあり、江戸に行くごとに将軍の前でこの中国音楽のえんそうを一回ずつやっていますがこの中国音楽は民間にははやりませんでした。
 これに反し三味線はこれまでの民謡の伴奏楽器ですからたちまち各地にひろがり
その名人もあらわれました。湛水(たんすい)という人(一六二三~一六八三)は名人として知られています。しかし今日の琉球音楽のみなもとをなす人は、屋嘉比朝寄(一七一六~一七七五)で彼ははじめサツマで謡曲をまなび後に琉球音楽にかわり、楽譜(工工四とよぶ)をつくりました。それには百二十の曲がのせてあります。小さな島々の中からこれだけの曲が生れたことは珍らしい(ママ)といわなければなりません。
 古い時代からうたわれていた民謡はいろいろの種類があって歌の型は一定していないが三味線を伴奏楽器として愛用されるころから、歌は八八八六の四句三十字ときまり、おどりも美しい型がしだいに工夫されてきます。古い時代にはお祭りの時、神女を中心としておどったものが、時代のすゝむにつれ一ぱんの人のおどりは神女のものとわかれ、ことに三味線が入って来てのちは、全くはなれてしまいます。それでもまだいねの取り入れがすんだ豊年祭の余興としてやることが村々ではさかんに行われました。しかし日本の能や狂言やかぶき劇のように職業的の芸人がやったものではなく、全く村や町の人が仕事のあいまにけいこしたもので、それ故にまたそぼくではあるが健康で生産的なものが少く(ママ)ありません。首里・那覇という都会が出来ても、職業的の芸人はいません。しかし田舎の歌やおどりを首里で美しい型に仕上げてこれが又田舎にもどって行ったのも多かったはずです。
 組踊りという劇は玉城朝薫によってはじめて作られたものです(一七一八)。朝薫(一六八四~一七三四)は首里の士族で役人となってサツマ・江戸にもたびたび行っており、沖繩・日本の芸能にも通じていました。一七一七年に、沖繩から与那城・金武二王子以下百七十人の使節団が江戸に上った時音楽主任となって上京、その翌年組おどりを作って上演したので、今までおどりしか知らなかった人々が涙を流してよろこんだといいます。
 組おどりは日本の能・歌舞伎劇のやり方をとり沖繩の音楽・舞踊を組みあわせた劇です。朝薫のあとに平屋敷朝敏、田里朝雲(ママ。朝直か?)なども組おどりをつくっています。これをやる人も、すべて素人ですからさほど進歩・改良がなく明治になって劇場ができ職業芸人がやるようになってはじめて名高い役者も出ています。

【問題】
 一、尚真王時代の文化と、この時代の文化はどうちがいますか。
 二、絣(かすり)はどんな方法でつくりますか。
 三、和歌と琉歌とどうちがいますか。
 四、職業的の芸人がいなかったのはなぜでしょうか。

※奥付
 一九五二年七月五日 第一版発行
    一九七三年二月一日 第二十二版発行

    琉球の歴史上
 定価 二三〇円

    著 者   仲  原  善  忠
    発行者  琉球郷土史研究会
      東京都北区堀船一ノ二三ノ三一
    印刷者   東京書籍印刷株式会社
           代表者 輿賀田 辰雄
    発行所   琉球文教図書株式会社

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