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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第18章 廃藩置県(下)③

3.沖縄県誕生

【解説】
 今まで、何冊も高校の日本史教科書、中学の歴史教科書などで、琉球処分の箇所を読んできたが、判で押したように、これは沖縄の人々の想いと裏腹に、日本政府が「処分」を断行したというニュアンスで書かれている。片腹痛い話だ。沖縄の人々は、この日を待っていたのだ。首里城が管理不行き届きで炎上して、俄かに県民は首里城は心の拠り所だというようなことを言い出している。確かに、それは沖縄の象徴的な建物であったこと(レプリカだが)には間違いないのだが、それはまた同時に、400年にわたる圧政の象徴でもあったことを誰も言わない。言わせない。結局、この歴史も、以前指摘したように隣国のそれと同じで、虚飾でありプロパガンダなのだ。琉球王国が豊かで平和であったのならば、なぜ滅びたのか。薩摩せいか? そんなことはないだろう。中継貿易が途絶えた後の琉球は、目立った産業もなかったのに、支配層は朝貢貿易での金儲けにしか思いが及ばなかった。工芸品には目を見張るものがあったのに、それは清国の皇帝と上層部の独占物で、日本や欧米に販路を広げるような知恵を出す者はいなかったのだ。
 自業自得である。しかし彼らは幸いであった。清国の支配下に落ちず、日本の県(これは、沖縄が外地ではなく、内地であったことを示している)になったのだ。それはその後の歴史が証明しているだろう。沖縄戦? それでは否定しきれない歴史の真実がある。だからこそ、反日主義者たちは殊更に沖縄戦を叫び、それを絶対化する。しかし、東京大虐殺(大空襲)では、一晩で10万人が亡くなっている。広島大虐殺、長崎大虐殺では、合計30万人に近いひとが一瞬で命を落としている。主要都市も空襲で焼け野原になっている。それなのになぜ沖縄が絶対化されるのか? 言い方は悪いが、それを感情に訴えることが、ある種の利権の構造になっているからだ。太田實中将が最後の電文で「沖縄県民かく戦えり。よって、戦後のご高配を」と嘆願したのは故なきことではない。筆者も、戦後の沖縄へのご高配は必要だったと思う(過去形にしておく)。それは実際に十分に行われてきたではないか。それと現代の国防政策を乱暴に結びつけるのは言語道断だし、そのご高配がどこに、何の為に使われて、県民にどのような恩恵があったのかという検証は行われないといけないだろう。
 最後の一文が、仲原の、そして、当時の心ある沖縄県民の気持ちをよく表しているような気がする。
 今回も、例によって、仲原の趣旨はそのまま、文法の誤り、陳腐な表現を洗練化させた。

【本文】
 明治12年正月、松田道之大書記官の一行は那覇に到着し、藩王の代理人であった今帰仁朝敷(なきじんちょうふ)その他の役人に会って、政府の考えを伝えました。
 それは、去る明治8年に政府から命令が出されているにも関わらず、役人を上京させて歎願し、受け付けられなかったら、今度は命令を受けるという約束を守らず、清国公使にすがったり、他の外国公使に頼んだりすることは、政府を軽んじるのみならず、国法を乱し、まことにけしからんことである。よって、3日以内に、命令をまもるかどうかの返事をせよ。命令を奉じない時は、今度こそ厳しい処分をすると言い渡しました。
 政府の固い決心を示した警告です。ところが首里政庁は、今度は不思議なくらい強く拒絶しました。
 東京の清国公使が日本政府に対し、琉球を勝手に処分することは好ましくないと申し入れたので、政庁の連中は、清国の助けがあると考えたからです。
 松田大書記官は、政庁の返事をうけとると、すぐに引き上げて政府に報告し、いよいよ強硬に処分する準備を急ぎました。
 松田一行が引きあげると同時に、政庁は、地頭を通じて今まで農民から取りたてていた加勢金及び法外に安い代価で物を買いとっていたのをやめ、地頭たちにもこれを禁じ、また砂糖代も、5銭から市価と同じ3円20銭に引き上げました。悪政に苦しみ、もがいていた農民にとっては、非常に喜びです。どうして、急にそうしたかというと、政府は、清国公使に対し、今回の改革は重税に苦しむ人民を救うためだと説明していたので、政庁は慌ててこれを改めたのです。しかし、このようなことをしても、もう手遅れでした。弓の矢はすでに弦を離れています。
 明治12年3月25日、松田は、官吏30余人、巡査160余人、歩兵300余人を連れて、那覇に上陸しました。
 27日、首里城に藩王(代理今帰仁朝敷)をはじめ、諸官吏をあつめ、「琉球藩を廃し沖縄県をおくこと」、「旧藩王は直ちにに上京すること」、「旧藩王は3月31日を期限に王城を退去すること」などを申し渡しました。政庁の連中は例によって嘆願文を差し出しましたが、今回は開いて見ることもせず、突き返しました。政庁が、如何に騒いでも、最早何ともなりませんでした。
 3月29日、尚泰は家族を引き連れて、住み慣れた首里城を退去し、31日に城を引きわたしました。 
 尚円王以来、19代400余年、沖縄を支配して来た第二尚氏は、支配者としての地位を去り、封建政治もこれをもって、終わりを告げました。
 そして那覇の内務省出張所には、「沖縄県庁」と書いた真新しい門標がかけられ、日の丸の旗が、さわやかな朝風に翻るようになりました。

【原文】
三、琉球藩から沖繩県へ
 明治十二年正月、松田大書記官の一行は、那覇につき、藩王の代人今帰仁朝敷(なきじんちょうふ)その他にあって、政府の考えをつたえました。
それは、さる八年の、政府の命令にたいし、今一度、役人を上京させ歎願し、きかれなければ、命令をうけるという約束をまもらず、外国公使にすがったり、中国公使にたのんだりすることは、政府をかろんじ、国法をみだし、まことにけしからんことである。よって、三日以内に、命令をまもるか、どうか返事をせよ。命令を奉じない時は、今度こそ、きびしい処分をすると、いいわたしました。
 政府のかたい決心をしめした警告です。ところが政庁は、今度は不思議なくらい強く、ことわりました。
 東京の中国公使が、日本政府に、琉球を勝手に処分することはよくないと申し入れたので、中国の助けがあると考えたからです。
 松田大書記官は、返事をうけとると、すぐにひきあげ、政府に報告し、いよいよ強硬に処分するじゅんびをいそぎました。
松田一行が引きあげると同時に、政庁は、地頭が今まで、農民から取りたてていた加勢金及び法外にやすい代価で物を買いとっていたのをやめ、地頭たちにもこれをきんじ、又砂糖代も、五銭から市価とおなじ三円二十銭に引きあげました。悪政にくるしみ、もがいていた農民にとっては、ひじょうなよろこびです。どうして、急にそうしたかというと、政府は、中国公使にたいし、今回の改革は重税にくるしむ人民を救うためだというたので、政庁はあわててこれを改めたのです。しかし、このようなことをしても、もうおそかったのです。弓の矢はすでにつるをはなれています。
  十二年三月廿五日、松田は、官吏三十余人、巡査百六十余人、歩兵三百余人をつれて、那覇に上陸しました。
  廿七日、首里城に藩王代理今帰仁朝敷をはじめ、諸官吏を集合させ、「琉球藩を廃し沖繩県をおくこと」、「旧藩王はしきう(ママ)に上京すること」、「旧藩王は三月三十一日かぎり王城を退去すること」等をいいわたしました。例によって、嘆願文をさしだしても、今度は開いて見もせず、つきかえしました。政庁が、いかにさわいでも、もはや何ともなりませんでした、三月二十九日、王は家族をひきつれ、すみなれた城を退去し、三十一日城を引きわたしました。
 尚円王以来、十九代四百余年、沖繩を支配して来た第二尚氏は、支配者としての地位を去り、封建政治もこれをもって、おしまいになりました。 
 内務省出張所(那覇)には、沖繩県庁と書いた、まあたらしい門標がかけられ、日の丸の旗が、さわやかな朝風に、ひらめくようになりました。

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