放課後ホンネの日本史・プロローグ
本稿は、平成10年4月から147回の長きにわたって、今はなき老舗の夕刊紙『大阪新聞』教育欄に連載した、歴史読み物がベースになっています。
読み始めて、どこかで読んだような感じがするかも知れません。その方はきっと、『教科書が教えない歴史』の読者だったのではないでしょうか。筆者は、自由主義史観研究会の元理事であり、『教科書が教えない歴史』の執筆者のひとりです。その連載を通じて、筆者は文章修行をさせてもらいました。
『教科書が教えない歴史』では、テーマに従って連載のタイトルと執筆者が決まると、各執筆者は独自にリサーチを行って原稿を仕上げました。そしてそれを、東京・大手町の産経新聞社へ持ち寄り、徹底的に「読める原稿」になるように、磨いていきました。この一連のプロセスは、一介の高校教師であった筆者に、書くことの楽しさと難しさを学ばせてくれました。
容赦なく原稿に赤が入り、意気消沈することもしばしばでしたが、荒削りな文章を、万人に読まれる「新聞」という舞台に合わせて整えることを通じて、筆者の本業である授業を、どのように構成するかということにも影響を与えることになりました。
筆者はそれまで、高校レベルでは史実をそのまま伝えることこそ重要だと、単純に考えていましたが、史実を素直に受け入れられるようにする為には、それなりの表現やテクニックが必要だったということに、この文章修行を通じて、自然と気づかされたのです。
大阪の定時制高校で日本史を教えていたある日、筆者の授業を受けるまで、歴史になど何の関心もなかったという女生徒が、終戦時の昭和天皇のご聖断の話を聞いた後で、ぽつりと、「先生、昭和天皇ってエエやつやってんなぁ」と言った時、その表現の不敬さは兎も角として、自分の授業が、少しは成長したのかなと、思ったものです。
さて、前置きが長くなりました。
本書の土台となった、同名の連載は、『産経新聞』の傘下にあった『大阪新聞』が、『教科書が教えない歴史』と同様の連載ができる人材が関西にいないかということで、産経新聞社で『教科書が教えない歴史』の編集担当で、後に論説委員を務められた皿木喜久氏に照会があり、同氏が大阪新聞社に筆者の名前を告げられたことがきっかけでした。『大阪新聞』から最初の連載依頼の電話があった時、筆者はたまたま席をはずしており、同僚から用件の伝言を受け取ったのですが、何かの間違いだと思いました。『大阪新聞』といえば、関西では株式と教育の記事で有名な、エロページのない、硬派の夕刊紙。その教育欄への連載依頼が小生如きに来るとは思えなかったのです。しかしそれは現実でした。グループ執筆でも構わないとの話でしたが、一度思い通りに歴史を書いてみたいという欲が沸いてきました。また丁度、連載が始まる1ヶ月前に、神戸大学大学院教育学研究科を修了していたので、研究の成果を小出しにしたいという思いもあり、単独執筆で連載をお受けしました。
今を思えば、文章修行をした割には、まだまだ表現力が甘いところも多々見受けられ、お恥ずかしい限りですが、連載終了後は商業出版をする心積もりでした。藤岡信勝先生からご推薦をいただき、出版社との交渉までしていただいたのですが、バブル崩壊後の出版不況は、単著を出すという筆者の夢を叶えてはくれませんでした。
これまでも自分のサイトで小出しにしてはいたのですが、編集の煩雑さもあり、完全に公開するには至りませんでした。まもなく節目の年齢を迎えるにあたり、noteで公開することを思いつきました。時間はかかるかもしれませんが、私にとって記念すべき業績のひとつなので、今度こそ最後まで公開したいと思います。データが欠落していた部分も産経新聞社からハードコピーを取り寄せ、OCRにかけました。
内容の骨子は連載当時とほぼ同じですが、若干の加筆修正を試みました。また、項目数をそろえるために、一部書下ろしの原稿も挿入する予定です。
本稿が読者にとって、偏向した教科書では教えてくれない、歴史の真実に目を向けるきっかけになれば幸いです。
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