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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第7章 王国の政治③

3.尚真王の政治

【解説】
 やはり勇み足が多く、その部分と、人権に関する「説教」については割愛した。教科書はすべてを盛り込むものではなく、記されした内容をもとに考えさせることが重要でだと考えるからである。
 筆者自身が知らないことが多いので、少し調べて、尚真王の事績については少し書き加えた。誤りがあればご指摘いただきたいと思う。

【本文】
 尚真の政治をまとめてみましょう。
1.中央集権政治を確立したこと
 三山の王は倒され、護佐丸・阿麻和利の乱、尚円の革命などで按司は少なくなっていました。もう、武力をもった大きな按司はほとんどいませんでしたが、尚真は各地の城にいた按司をすべて首里にあつめ、徴税など地方政治の仕事は、按司掟という役人を首里から派遣して行わせました。また首里には、王を補佐する三司官(さんしかん。または、世あすたべ)を置きました。
 後に、王子や王族が按司に任ぜられましたが、これは形式的なものになり、ある種の「位」にかわりました。
 政治の中心は首里だけになり、田舎はもとの田舎に戻りました。地方制度として、現在の市町村に相当する地域を間切としました。古城はお祭の時だけ人の記憶によみがえり、様々な伝説だけが残りました。
2.離島を支配したこと
 奄美大島と奄美諸島、宮古、八重山、久米島にはそれまで独立した按司がいました。宮古島は尚円の時に服属していましたが、尚真は1500年に八重山諸島で遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)の乱が起きた時、3000人余りの兵士を46隻の船で派遣して平定しました。久米島の按司も1507年頃に尚真の兵により滅ぼされました。さらに1522年には八重山最西端の与那国島を征服し、全て首里の王の支配下となりました。
 奄美大島もかつては各地に按司がいて人々を支配していましたが、三山の按司が倒されたころには、それまでのような按司はいなくなり、村々には大親と呼ばれるリーダーがいて首里の王に貢物を捧げていました。大親が貢物を怠ると、兵を出してこれを征伐に行ったことも数回ありますが、それも単発的なもので、尚元王から後は、極めて平和な関係でした。
3.南方貿易を行ったこと
 明との貿易の外、東南アジアへの貿易船はすでに察度の時代から出ていましたが、尚真王の治世の中頃から、毎年シャム、マラッカ、アンナンなどに船を出しています。
 輸出品は、明の磁器や織物と日本からの品で、各国の胡椒、蘇木(そぼく。染料)をもって輸入して各国にまた輸出する、いわゆる中継貿易です。明から輸入される品物は三山時代のような実用品ではなく、王族や貴族のぜいたく品が目だって多くなりました。
4.首里の美化を行ったこと
 尚真はまた首里城を拡張して、石垣、城門などをつくりました。ビンヌウタキ(弁ケ嶽)、ソノヒヤンウタキ(園比屋武御嶽)などに花木をうえ、石垣、石門をつくり、道路をひろげて松並木を植えました。さらに円覚寺などの寺院を立てたり、行けや橋を作るなど、様々な土木工事や建築を行い、首里の美化に力を注ぎました。また墓陵として玉陵(たまうどぅん)を作りました。美しい石造建築はこの時代に多くできています。
5.平和主義的な政治を行ったこと
 尚真は、臨済宗に帰依し、平和主義的な理想をもって内政・外交を行ったので、前代のような、殺伐として気風はなくなりました。王や、上位の人が死んだ時に、男女の家来が、2、30人も殉死するという悪習慣を禁じたのはそれを象徴するできごとです。
6.階級制度をもうけたこと
 按司時代から、すでに按司とその家来たちは、生産から離れ、一種の支配階級をつくっていましたが、まだ社会的に身分の上下ということはありませんでした。
 尚真は金、銀、真論のかんざしで身分の区別を行い人民に差別をつけることとしました。貴族は金、士族は銀、その他の国民はすべて真論でした。沖縄に限らず、身分をはっきりと固定させ、生れながらにして上下の差が分かれるような社会組織は、いわゆる封建社会の特徴です。
 今日のように法律の前にはすべての人が平等であり、その人の能力や努力の有無によってはじめて格差が生ずるとは考えませんでした。人間ははじめから上下の別があるとすれば、支配者はその地位を安心して受け継ぐことができます。
 時代が進むにつれて、貴族や士族の中にもいくつかの階層ができました。同じかんざしを挿していても、下の階層の者はどうしても上の役人にはなれません。農民や町人には衣食住の上からも強い制限ができてきて、非常に窮屈で住みにくい世の中となっていったのです。
7.女神官の組織
 尚真王は妹を聞得大君(きこえおおきみ)という官に任じました。その地位は国王に次ぐもので、全沖繩のノロを支配する役人でした。知念間切を領地とし、彼女の下に女役人が3人いました。その役人が地方にいる数百人のノロを支配し、王宮のお祭りを司りました。
 代々の王の娘たちは首里大君、サスカサなど、様々な役名を持ち、高い禄(給料)をもらって、城内でのお祭りに加わっていました。聞得大君は後に王妃の次の位になり、王妃がこれを兼ねることもありました。
 彼女達は古い迷信を守っていたので、仏教が入って来ても心からこれを信じることはありませんでした。
 このように、尚真の政治は、大きな功績もたのですが、後の世に禍根を残した点もありました。

【原文】
 尚真のやったことを取りあげてみると次のようなことです。
一、中央集権政治に改めたこと。各地方の城にいた按司をすべて首里にあつめ、按司掟という役人を 首里からやって、税の取りたてその他の仕事をやらせた。
 たゞし、武力をもった大きな按司は大かたいなくなっています。三山の王はたおれ護佐丸・あまわりの反乱、尚円の革命などで按司は少なくなっております。そのあとに王子・王族が按司に任ぜられるがこれは一つの位にかわります。
 政治の中心は首里になり、田舎はもとの田舎にかえり、古城はお祭の時だけ人の記憶によみがえり、いろいろの伝説だけがのこります。
二、各離島を支配したこと。大島各島、宮古・八重山・久米島にはこれまで独立した按司たちがいたが、宮古島は尚円王の時からすでに服属し、久米島の按司は尚真王の兵のためにほろぼされ(一五〇七?)、八重山も兵三千余人を四十六隻の舟にのせてつかわし反乱を平定しそれから首里王の支配となりました。
 大島諸島も各地に按司がいて人民を支配していたが、三山の按司がたおされたころには昔風の按司はいなくなり、各間切に大親がいて首里の王に貢物をさゝげていました。
 大親の中には貢物をおこたったりすることがあり兵を出してこれを征伐に行ったことも数回あるが、これも部分的なもので尚元王からあとはきわめて平和でありました。
三、南方貿易。中国貿易の外に南方への貿易船はすでに察度の時代から出ているが尚真王の中ごろから毎年シャム、マラッカ、アンナンなどに舟をだしています。
 つんで行く荷物は中国の磁器、織物と日本品で、向うの胡椒や蘇木(染料)をもって来る、いわゆる仲継(ママ)貿易です。中国から輸入される品物は三山時代のような人民の実用品ではなく、王族貴族のぜいたく品が目だって多くなります。
四、首里の美化。尚真王はまた首里城をかくちょうしてその石垣、城門等をつくり、べんの岳、そのひやんお岳などに花木をうえ、石垣、石門をつくり、道路をひろげて松並木をうえ、円覚寺その他の寺を立てたり、いろいろの土木工事(池・橋等)をおこし建築をおこない首里の美化に力をそゝぎました。
 美しい石造建築はこの時代に多く出来ました。
五、平和的政治と殉死の禁
 王は、平和的理想をもって、内治・外交を行ったため、前代のような、さつばつな気風はなくなりました。又、王とか、上の人が死んだ時、男女の家来が、二三十人も殉死するわるい習慣を禁じました。
六、階級制度をもうける。按司時代から、すでに按司とその家来たちは、生産業からはなれ一種の支配階級をつくっていたが、まだ社会的に身分の上下ということはなかったが、王は金、銀、真論のかんざしをもって人民に差別をつけることとし、貴族は金、士族は銀、その他の国民はすべて真論ときめました。家族もおなじあつかいですから社会ぜんたいが金・銀・真論のしるしをいつも頭にのせているわけです。このように身分をはっきり固定させ、生れながらにして上下の差がわかれるような社会組織は、封建社会のとくちょうですが、封建社会ではすべて上の者の都合のよいようなことを中心として政治を行いますから、かようなことが考え出されたのでしょう。
今日のように法律の前にはすべての人が平等であり、その人の能力によってはじめて差別が生ずるとは考えなかったわけで、人間ははじめから上・下の別があるとしたとすれば支配者はいつまでも安全快適な地位にかれるからです。
 時代がすゝむにつれ、金銀階級の中に又いくつかの段階が出来てきて、下の階級はどうしても上の役人にはなれません。農民や町人には衣食住の上からもきつい制限が出来、まことにきゅうくつな住みにくい世の中となります。二百年後の尚敬王時代(第十章)になると、島民は移転の自由もなくなり職業のせんたくの自由さえ失うというようになります。
 しかし、人間はもともと自由であり、平等であることをのぞんでいます。あまりに不合理な制度はこれを打ちこわし、住みよい生きがいのある社会をつくろうという方向にすゝんで行きます。これが人類の進歩で、歴史はそれを証明してくれます。
七、女神官の組織、尚真王は妹を「聞こえ大君」という官に任じます。「聞こえ大君」の位は国王の次で知念間切を領地とし、全沖繩のノロを支配する役人です。彼の女の下に三人の女役人おおり、これが各地方にいる数百人のノロを支配し又王宮のお祭りをやります。
 又代々の王の娘たちは首里大君とかサスカサとかいろいろの役名をもち高い俸給をとり城内でのお祭りに加わっています。「聞こえ大君」はあとで王妃の次の位になり又王妃がこれをかねることもあります。
この女性達は古い迷信を守っているので仏教が入って来ても心からこれを信ずることは出来ません。社会の進歩を害したことはきわめて大きく、あとの政治家羽地朝秀は改革をこゝろみたが成功しませんでした(第十章)。
 以上尚真王の政治はりっぱなことも多く大きな功績もあるが又右のような害毒をながした点もあります。

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