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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩④

4.薩摩の支配に対する評価

【解説】
 この項全体で勇み足、ということは、これが薩摩の琉球征伐について、仲原の言いたかったことなのだろう。沖縄の二大政治家が薩摩の支配を肯定的にとらえていたのだ、と。ただ、読み物としては、ここでいきなり今まで聞いたことのない人物が登場するのはまずいのだが、これを後ろに全部回しても推敲、編集が大変なので、やむを得ずそのまま置いた。しかし、大島の話や、次項の予告はいらないので、割愛した。

【本文】
 薩摩の支配を、政治家たちはどのように捉えていたのでしょうか。
 薩摩が沖縄を支配した時代に、琉球の政治をリードした2人の政治家、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)と蔡温(さいおん)が登場します。彼らのことは後で詳しくお話ししますが、ここで少しだけ、この2人の、薩摩による支配の評価をみてみましょう。
 羽地朝秀は「ひとり静かに考えると、この国の人が、初めは日本から渡って来たことろいうのは疑いの余地がない。そうだから今日でも、天地山川、鳥獣草本の名までみな似ている。言葉づかいが多少ちがうのは、遠国のため久しく通交しなかったからだ。五穀も、人と同じく日本からわたって来たものだ」といい、日本とはもともとひとつなのだから、早くこれと同化することがよいと考えました。島津の支配を肯定的にとらえた羽地は、政治も手際よく改め、日本文化を消化して、1日も早く沖縄を後進性からぬけ出させようと務めたことが明らかです。
 蔡温は「毎年お国元(薩摩)へ租税を上げることは大変な損のように見えるが、実は大きな利益になっている。というのは、この国は、昔は政治も乱れがちで、百姓は油断し、物も不自由で、わがまま勝手な風俗で、時々革命騒ぎもあり、政治は困難であったが、お国元の支配になってから、風俗もよくなり、島民も勤勉になり、誠に結構な世になった。それもこれも島津のおかげである」と述べています。即ち島津によって国内の治安がたもたれ、王の政府も安定し、物資も出回ったことを喜んでいるように思えます。

四、沖繩の政治家の考え
 その後の沖繩の政治家はどう考えたか。あとにお話しする羽地朝秀は「ひそかに考えると、此国の人は初め日本から渡って来たことはうたがいない。されば今日でも天地山川、鳥獣草本の名までみな似ている。言葉づかいが多少ちがうのは遠国のため久しく交通しなかったためである。五穀も人と同じく日本からわたって来たものである」といい、日本とはもともと一つであるから、早くこれと同化するのがよいと考え、政治もてきぱきと改め、日本文化を消化して一日も早く沖繩の後進性からぬけ出そうとつとめたことが明らかです。
 羽地のあとの政治家蔡温になると、又ちがった意味で島津の支配になったことは沖繩の利益であることを主張しています。
 「毎年お国元(さつま)へ租税を上げることはたいへんな損のように見えるが実は大そうな利益になっている。というのは、この国は昔は政治もみだれがちで、百姓も油断いたし、物も不自由でわがまゝ勝手な風俗で、時々革命さわぎもあり、困難なことであったが、お国元(さつま)の支配になってから、風俗もよくなり、島民も勤勉になり、誠にけっこうな世になったのも、島津のおかげである。」といっています。即ち島津によって国内の治安がたもたれ、王の政府もつゞき、物資も出廻ったことを喜んでいる風に見えます。
 一ばんみじめな目にあったのは大島です、大島のことはあとで話しましょう。次にわれわれは中国と沖繩の関係をこゝではっきりさせてかく必要があります。

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