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生きている間に伝える

2021年の秋に、心の中が丸っと変わってしまってから、これからの人生では今が苦しい変わりたいという人の役に立てるようになりたいと思っている。

その頃は心理系のカウンセラーの講座を申し込んだ。でも、それは進んでなくて違う側面の知識を今は入れている。

カウンセラーやコーチングなど様々なアプローチの方法はあるけど、まずはその前に最も重要なことがある。他人を幸せにしたい、楽しく生きて欲しいと願うのであれば、自分が幸せであること、そしていつも傍に居る家族が幸せであるということ。

カウンセラーをしてるのに、自分の周りが不幸な状態では目も当てられないし、それは結果として自分の色々な面にも影響がでるから。

私は資格よりも先に、何処かよそよそしい、家族だけど冷たい「見えない壁」を長年感じる家庭から改善をするべきだと思った。


私が生まれた頃は1980年代、祖母が養女として迎えられた家で、祖母が祖父と結婚し、長女の私の母親が父と結婚、私と妹が産まれた。
巷でいう、「マスオ」さんの父は人の家族の中に入ったことによる、ストレスもきっと結婚してから相当にあったことだと思う。幼い頃の記憶では、祖母や祖父との会話の端くれに「トゲ」を感じていたし、きっと二人のことをあまり良く思っていないんだろうなと、悲しいなと感じて過ごしていた。

まだ小学生くらいの時に、祖母から「ヒロちゃんは長女だから、お墓の面倒みていかないとね」と言われていた。「長女」ということ。その「長女」というシガラミ…。今思えば本当に苦しかったなと思う。

人はくだらないって思うかもしれない、でもさ好きな人が出来て、妄想なんかで好きな人の苗字になった自分を想い浮かべたり、なんかワクワクしたい時にも水を差すように、私はお婿さんを貰わないといけないってずっとくっついてくる。私にお兄ちゃんが居ればな!とか本当によく思っていた。

お家は普通にあって、両親も共働きで、確かに不自由なく物質的には育てられていたと思う。でも、ずーーーっとずーーーっと言い知れぬ寂しさがある家庭の中だった。何て言うんだろう。無機質というか、上辺というか…。温もりを感じられない、居場所が無いと高校生の時には思っていた。

反抗心からか、19歳頃の私は家に帰らない日が増えた。彼氏の家に居候して、たまに必要があれば家に帰るといった生活だ。とても真面目で堅実な両親からしたら私の行動は気を病ませていたと思う。

また彼氏が出来たら、いきなり家から長期に渡って居なくなったり。散々迷惑をかけた20代前半。自分を必要としてくれる人が欲しかった。自分の居場所が欲しかった。そして自由が欲しかった。代償は沢山あった。

結婚して、離婚に至るまでも、沢山のことがあったし、私は本当にどうしようもない者で両親に多大な損失と迷惑をかけてしまった。

離婚してからは、両親の視点からみたら子供達の為に懸命に働いてる様子は給料は安いが、少しは安心して見ていられる状態であったと感じる。仕事に関して、とやかく言われる事もなかったし、重労働な面もあったので逆に身体の心配をさせていたこともあった。

私が子供をもつ存在になったこともあって、確かに昔よりかは私自身も丸くなり、会話が穏やかな面もたまに増えてはいた。でも、やっぱり「見えない壁」が存在している。


2021年11月ごろ、内観にて気付きを得ていたこともあり、家に対して、家族に対して、両親に対しての思いも様変わりしていた。

この頃、数日間のあいだはいずれ両親にも今の私の状態を伝えようとまだ先を見ていた。でも、思ったんだ。

いずれ?もしも私が明日生きていなかったら、今この心の中にある「ありがとう」という気持ちは、私の言葉で伝えられずに逝くのか?と…。
散々迷惑を掛けてきて、「感謝の気持ち」も「両親の愛」に気付けたことも伝えずに逝くのか?と…。

その日は父の誕生日だった。
私は、普段なら夜は行かない、両親が居る居間へ駆け込んだ。

「何だ?どうしたんだ?」という様な顔をしている。
私自身もどんな顔で居間に入っていったか覚えていない。上手く伝えられないかもしれない、けど今感じてるこの感謝の気持ちを私の心から放つ!そんな気持ちでしかなかった。

改まって、正座をする。

急に驚いたと思う、だけどここの所私の中で著しい変化が訪れたこと、今まで「ない」「ない」「ない」と思って生きてきたけど、本当は既に「ある」「あった」と言うこと、私はそれまで気づけて居なかったけど「両親からの愛」を沢山受け取っていたこと。気付けなかったのは、私が望む「愛のカタチ」表現では無かっただけのこと、でも「愛のエネルギー」は十分に注がれていたこと。「ありがとう」と心から今思っていること。

長女として生まれて、色んな面でプレッシャーがあったこと。家を継ぐという事に否定的に思ってきた、でも今はちゃんと自分が見ていきたいと思えるようになったこと。私の心が変わったのは、祖母の死がきっかけであったこと、おばあちゃんが私に教えてくれたと思っていることを伝え、私は幼い頃夕食の時の時間が嫌いだったことを告げた。

仲良くして欲しいのに、殺伐とした雰囲気の食事の時間が苦痛だった。悲しかった。もっと、親が笑ってる姿を、皆が笑ってる姿が見たかったんだと伝えた。

1時間程話をしただろうか?
子供からそんな話をされたら、そうゆう雰囲気になるのは流れなのかもしれない、ただ確かに「見えない壁」の表面が僅かに溶けだしたように感じた夜だった。


現在それから4ヵ月が経過している。完全に「見えない壁」が無くなった訳ではないが、以前よりも家族間での笑顔が増え、一緒に笑える日々が増えている。生きているうちに伝える。私は伝えたことで、こうやって一緒に笑える日を体感している。とても幸せなことだと思うんだ。


39の日 サンキューの日 ありがとうの日



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