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気まぐれに親が送ってきた食べきれないほど大量のせんべいは意外と食べきれる話

親という生き物は予想不可能な動きを見せるし、ここじゃないというところにこだわりがあるし、年を重ねると変な趣味を始めるし、理解しがたい。

息子である僕も、親の目線から見たらきっとそうなんだろう。

兄弟とは通じ合えるところが多くある。だが、兄弟だから隠してしまうこともあるかもしれない。とくに僕たちのような微妙な年齢に来てしまった兄弟は、気の置けない仲間のようであり、5年間口を聞いていない親友のようでもある。

総じて「家族」とはゆるい連帯で結ばれた他人である。もしかしたら他人よりも捉えがたい存在なのかもしれない。それでも、無条件に愛しているよ。




さて、「説明書通りにやればだれでも同じ味を再現できるコーヒー」があるとして、それは「コーヒー」だろうか。

いや、これは当然「コーヒー」である。しかも質の良いコーヒーといってよい。なぜなら、コーヒーを淹れるときに一番難しいのが、「味の再現」だからだ。


『完璧に同じ味』と評価するのは不可能に近い。コーヒーの味を決める要素が多すぎることと、我々の舌が教育の途上にあるからである。


それでも、完璧に近づけることはできるだろう。

それが、説明書のあるコーヒー『ブルーボトルコーヒー』である。



『ブルーボトルコーヒー』は抽出に関わる多くのことが「数字」で管理されているらしい。粉の粒度、グラム数、湯温、抽出時間などだろうか…。

お恥ずかしながら、ぼくは一度も足を運んだことがない。行ってみたいのだが、店内が超満員であることと、ぼくのあまり得意でない「浅煎り」をウリにしているからだ。正直、浅煎りも浅煎り、超浅煎りだと思う。

味がおいしいかおいしくないかは個人の判断によるし、なんといっても僕は飲んでいないわけだから、ここまでで終わりだ。言いたいことはあるが、沈黙しよう。


試みは素晴らしい。お客さんからお金を取るということに向き合っている。

でも、そこに哲学はあるのだろうか。


いやいや『ブルーボトルコーヒー』ではない。そこでコーヒーを注ぐ従業員たちにだ。



常連しか来ない喫茶店でずっと「経験」と向き合ってきたひとと、移り変わりの激しい消費者に「ルール」で答えるひと。この両者は通じ合えるものなんだろうか。


新しい時代の幕開けか、コマーシャリズムか。そんなことをふと思った日曜だった。

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