人的資源への投資の有効性を考える ~エーザイの統合報告書と『タレント・ウィンズ』をヒントに~
経営者の方とお話ししていると「総額人件費を下げたい」という課題を伺うことがあります。いびつな人員構成(特に50代従業員比率の高さ)を背景に、年功的に賃金が上昇する人事制度が利益を圧迫し経営を難しくしているので何とか手を打ちたい、というものです。
また、年功的な賃金の上昇は、利益の圧迫だけでなく、高賃金な「働かないおじさん」を見ている若手がモチベーションを下げ離職する悪循環に繋がっているという課題とセットで捉えられています。これに対し、最近よく聞く「ジョブ型」の人事制度に移行すれば、総額人件費のコントロールをしつつ、働きがいを高められるのではという期待感があるように感じます。
ただ、松下幸之助氏の「企業は人なり」に近いですが、価値を生み出すのは企業そのものではなく、そこで働く人によってもたらせるものであると私自身は考えています。財務上、人件費はコストなのですが、実態は将来の価値を生み出すための投資、車に言い換えればガソリン(最近は電気かもしれませんが)にあたるのではないでしょうか。目先の利益のため、総額人件費を下げることを目的(表向きに人件費削減を目的に据えることはないと思いますが)に人事制度を改定することは、車本体の構造を変えず単純にガソリンの削減するものであり、それでは長時間の運転に耐えられないのではないかと考えます。
しかし、車に例えたように、この議論は抽象的になってしまうと感じていました。本当に人的資源への投資を続ければ付加価値が生まれるのか、企業価値が上がるのか、利益の改善とROE向上こそが投資家への説明責任を果たすことなのではないか。
このような反論に応えたのが、エーザイの統合報告書にある「ESG 見えない価値の見える化への挑戦」でした。
(IRのページリンクが貼れないのでトップページで)
人的資本への投資は、昨今言われるESGのS(Social)にあたりますが、ESGの取り組みは本当に企業価値向上につながるのかという点が不明確という課題がありました(ESG投資のリターンを見ると、そうでない場合よりもパフォーマンスが高いという"結果"から導かれる相関はありました)。
エーザイの取り組みは、人的資本など非財務資本(ESG)が将来の企業価値(PBR)に与える影響を回帰的に分析したものです。この中でエーザイにおける実証研究の結果が次のように示されています。
人件費投入を1割増やすと5年後のPBRが13.8%向上する
女性管理職比率を1割改善(例:8%から8.8%)すると7年後のPBRが2.4%上がる
これは全ての企業にあてはまるものではないとはいえ、人的資本への投資と将来の企業価値の相関が分かりやすく示された象徴的な事例です。著者の柳先生は伊藤レポートのROE8%の根拠を示された方ですが、この実証研究も今後の企業経営に大きな示唆を与えるものだと思います。
ここで思い出されるのは、書籍『タレント・ウィンズ 人材ファーストの企業戦略』です。
この本では、人材こそが戦略を主導するという考えのもと、”人材ファースト”企業になるための方法が書かれており、特にCEO、CFOにCHROを加えて戦略を議論すべきという点が大きなメッセージとなっています。
この本の冒頭、「人的資本を金融資本と同様に賢くマネジメントする」という節に次のような記載があります。
ここで一つ、はっきりさせておこう。人的資本の配分は、金融資本の配分とは大きく異なる。ドルやユーロはあなたが送金したところにまっすぐ向かう ー もちろん、送金されたことに不満を漏らすような真似はしない。一方、人材は自分の命運について一言ある。才能ある人材は引く手あまたなこの時代においては、自社に最高の人材を引き付けたいのであれば、社員に発言を許すだけでなく、積極的に発言するよう促さなければならない。つまり人材配置が成功するか否かは、社員個人の興味、野心、イノベーションがつねに会社の戦略と未来を描くような環境を作れるかどうかによって決まってくる。
ここでのポイントは次の2点だと考えます。
・人的資本の配分は金融資本と異なり、直接的に価値を反映しない
・人的資本の配分を有効にするには、社員の興味や野心などと会社の戦略を一致させなくてはならない。
一点目は、エーザイの統合報告書でも示されている「遅延浸透効果」(ESGの取り組みは数年後のPBRと相関する)と近い考え方です。
二点目は、単純に人的資本へお金を投下するだけでは企業価値が高まらず、様々な複合的な施策と組み合わせることが重要であることを示しています。
ここまで見てきたように、エーザイの統合報告書と『タレント・ウィンズ』を基に、「総額人件費を削減したい」という課題に対する考えを整理すると次の2点になります。
①エーザイのような実証分析ができなくとも、ある程度類推して自社での人的資本への投資効果を算定してみて、人件費の削減効果と、人的資源への投資効果を比較する必要があるのではないか。
②賃金削減を念頭に置いた人事制度改定以前に、社員の興味や野心を引き出し、イノベーションを促進する環境作りを先に議論するべきではないか。
現時点での考えではありますが、少し荒い論考になってしまったので、このテーマは引き続き深堀りしていきたいと思います。
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