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「半自伝的エッセイ(45)」待合室の夜

チェス喫茶「R」では半年を一期としてチェス名人戦なるリーグ戦を開催していた。仕組みはほぼ将棋の名人戦と同じで、リーグを勝ち上がったプレイヤーが時の名人と戦うというものだった。五期連続で名人位を守ると永世称号が与えられる決まりになっていたが、実現した人は誰もいなかった。それぐらい棋力が拮抗していたか、あるいはどんぐりの背比べ状態だったか、そのいずれかだった。私はといえば一度も名人位に就いたことはなく、挑戦者になったことすらなかった。半年を通じて好調を維持できないのが最大の原因だと自分でもわかってはいたものの、それだけでないなにかがあったようにも思う。

その日は時の名人のOさんに挑戦者のMさんが挑む七番勝負の日だった。将棋と違い一日で全局をやってしまう。持ち時間はフィッシャールール。日が暮れて4局が終わった時点で、名人の1勝、挑戦者0勝(残りはドロー)だった。夕食休憩を挟んで指された5局目は挑戦者がものにした。6局目はドロー。ということで、これ以上ない盛り上がりで最終局を迎えることになった。どちらも負けられない対局ということで、お互いに手が伸びず、守りを固める展開となり、こうなると勝敗がつくことはなかなか難しく、案の定ドローとなった。規定により名人がタイトルを防衛した。

その夜、居酒屋で打ち上げを終えて、終電近くに帰路についた私は、最寄駅で電車を降りてすぐに異変に気づいた。焦げ臭いのであった。あたりを見回すと、緊急車両の赤色灯が駅からそう遠くない場所でいくつも回転していた。火も見えた。その辺りは私のアパートのある場所かごく近くだった。自分のタバコの不始末が原因だったらどうしようかと不安になったが、その日は午前中の早くにアパートを出ていたから、燃えるならとっくに燃えていないとおかしい。自分のタバコの不始末説は否定され、ひとまず安堵した。

改札を出るとすぐに野次馬に遭遇した。何本かのホースを跨いで現場に近づくと、燃えているのは私のアパートではなくその斜め後ろに建っている二階建ての民家だった。三方から放水されており、私のアパートにも盛大に水が掛かっていた。もともと大雨の際には雨漏りがする安普請であったから、相当の水が私の部屋にも入っていると考えて間違えなかった。貴重品などは元よりなかったからそれはいいのだが、今夜からどこで寝たらいいのか困った。

とはいえ、自分のアパートに近づくことすらできない私にできることは皆無だったので、野次馬に混じって消火活動を眺めていた。しばらくして背中をつつく人がいた。振り向くとそれは歯医者の先生だった。
「どうしたんですか?」
「藤井君のアパートのほうだったから」
「心配してくれたんですか?」
「だって、藤井君が焼死体で見つかったら身元確認で歯の照合をするかもしれないじゃない」と先生は冗談とも本気ともつかないことを真顔で言うと、「今日はうちにいらっしゃい」と言って駅の方向に歩き出していた。

それまで知らなかったのだが、先生の病院は一階が診察室、二階と三階が居住スペースになっているようだった。二階の階段の上から先生は私に夏掛けを放って寄越した。その夏掛けを抱えて行ってその夜私は待合室の長椅子をベッドにして眠りについた。

明け方、胸を圧迫されるような感覚があり、目が醒めた。待合室の中はカーテンの隙間から差し込む光でぼんやりしていた。私の胸の上にはなにやら大きな影のような存在があった。それが胸を圧迫しているものの正体であった。目の焦点を合わせるとそれは猫だった。猫は私の顔を見ているようなのだが、目はどこかうつろだった。私を見ているのではなく私ではないなにかをじっと見つめている雰囲気だった。そうするうちに私は自分の胸に熱いなにかを感じた。はじめそれは猫の体温かと思っていたが、熱は腹のほうにも移動し、背中まで回り込んできた。ようやく私は私の胸の上で猫がおしっこをしていることが寝起きの頭にも理解できた。

用を終えた猫が床に飛び降りた。私も立ち上がった。Tシャツの前がぐっしょりと濡れていた。すぐにTシャツを脱ぎたかったのだが、そうすると顔におしっこがべったりと付きそうで逡巡していると、待合室の入り口に先生が姿を現した。
「もう目が醒めちゃったの?」
「いや」と言って、私は事情を説明した。
先生は「ナナちゃん、どうしてそんなことしちゃったの」と言って、足元ですりすりしている猫の頭を軽く叩いた。
「早くシャツを脱いで」
私は言われるままにTシャツを脱いだ。「猫のおしっこは臭いが消えないから捨てちゃうね」と言って、私の手からTシャツを取り上げ、どこかに消えた。
しばらくして戻ってきた先生の手にはバスタオルとTシャツが握られていた。また言われるままにシャワーを浴び、Tシャツに袖を通すと、それはどうやら先生のものらしく、かなり小さかった。洗剤の匂いだけでなく、なんとなく甘い香りがした。

アパートがどうなっているのか見に行った。部屋の中は一見なんの変化もなかったが、畳を足で踏むとぐっと凹んだ。かなりの水を吸っていた。そしてどこもかしこも焦げ臭かった。畳の縁を歩くようにして押し入れを開けると、突っ込んでおいた衣類もびしょびしょだった。数日分の下着やら洋服やらを抱えて部屋を出た。そこで高齢の大家さんと出会った。
「だめ?」と大家さんは開口一番私に尋ねた。
「だめです」
「畳を替えないとね」
「いつ頃になりそうですか?」
「そうねえ、畳屋さんに聞いてみないと」
大家さんの悠長な感じだとだいぶ日数が掛かりそうだった。
とりあえず私はコインランドリーに行って洗濯をした。アパートはあれだけ浸水しているとなると畳を替えたぐらいでは居住できそうになかった。実家に戻れば寝場所は確保できるが、都内まで一時間半ほど時間が掛かる。毎日往復するのもしんどい気がした。答えの見つからないまま乾いた洗濯物を抱えて先生のところに戻った。
「だったらここで寝起きすればいいじゃない」というのが先生の提案だった。私はその言葉に甘えることにした。「でも、患者さんが来るまでにちゃんと起きてね」

タダで屋根を借りているのも気が引けたので、朝起きると待合室を掃除し、外を掃き、伸びすぎた木の枝を払ったりした。待合室の少しぐらぐらした椅子を直したり、雨樋に溜まっていた落ち葉を掃除したり、やろうと思えばやることは結構あった。
「やっぱり男手があると違うわね」と先生は言い、どこか満足気だった。
ある時、「ねえ、それはどうすればいいの?」と先生に聞かれた。それと先生が指差したのは、待合室のテーブルの上に置かれたチェス盤だった。それは私も気になっていた。中盤の難所と言える局面。あれから先生は自分でもチェスの研究をしていたらしい。「どうやっても黒はいい形にならないんだけど」と先生は言った。たしかに十数手先まで局面を進めてみても黒にとってこれといったいい形になりそうになかった。ドローでいいのであれば話は簡単だったが、それでよければ先生は私に尋ねたりしないだろう。
「少し考えてみます」と言って、私はその局面を引き取った。

時折アパートの様子を見に戻ったが、まるで進展がなかった。濡れた畳はそのままで、焦げた臭いと相まって異臭を放っていた。大家さんに尋ねると「今、大工さんと相談しているところ」との返事だった。やはりまだ時間が掛かりそうだった。先生の家というか待合室で寝起きさせてもらうのは便利であったが、毎晩長椅子で寝ていたのでさすがに腰などに負担が来た。待合室で直すべきものは直してしまったし、外ももうやることがなくなっていた。あとやるとすると駐車場の薄くなった白線の引き直しぐらいだったが、それは私には荷が重すぎた。一旦は実家に帰るべきかもしれないと思った。そのことを先生に伝えると「そう」と肯定とも否定ともつかない反応だった。

その夜、胸の上に重みを感じ目が醒めた。また猫のナナちゃんだろうと思ったが、どうも重みの具合が違った。薄く目を開けると、私の上にいるのはナナちゃんよりもずっと大きな存在だった。見てはいけないような気がして、私は寝たふりをしていた。始め先生は小さく腰を上下させていた。次第に大きく動かすようになった。深く腰を沈めた時には大きな息を吐いた。リズミカルな先生の吐息がまだ暗い待合室を満たしていった。待合室の空間が先生の吐息を受け止めきれないほど満ちた時、私は射精した。その瞬間、先生から宿題のように引き取っていた中盤の難所の答えがわかったような気がした。十一手目にビショップをc3に進め相手に二択を迫る。白が間違えばまだ勝ちを諦める必要はなかった。

(この回終わり)


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