見出し画像

「半自伝的エッセイ(24)」被害者N君

このところ世間を震撼させている例の大手芸能事務所代表(故人)による性的加害事件の被害者の一人のことを私は知っている。何十年も前のことである。

いつの頃からかひっそりとチェス喫茶「R」に顔を出すようになったのがN君だった。存在感が希薄というか、大人しいというのか、とにかく目立たない青年だったが、やがて私と歳が近いこともあり、よく盤を挟むようになった。

N君はお世辞にもチェスが強いとは言えなかったが、どの局面でも時間を気にせずによく考えるのが印象的だった。そのせいで時間切れで負けることも多かった。でも本人はそれをあまり気にしていないように見えた。チェスという勝負をやっているというより、チェスという思考を行っている雰囲気が感じられた。対局の間中、決して盤から目を上げることがなかった。

そんなN君とは二人で飲みに出かけることも増えた。N君はなんというか大勢でわいわいやるのは嫌いなようだったが、かといって独りになるのはどこか不安な様子があって、私としてはN君を放っておくというのがなんとなく気が引けて、行動を共にすることが自然と増えていった。

ある日、いつものように二人で飲んでいた時のことである。N君が話したくないけれど話さずにはいられないという様子で、あることを私に打ち明けた。それが、大手芸能事務所代表(故人)による性的加害行為だった。その時N君は中学一年生だった。

N君の話を途中まで聞いて、私は実に浅はかなことに、少し異なる性的嗜好を持つ中年男性に気に入られてしまったが故の一回限りの悪夢ぐらいにしか思わなかった。しかし、それからのN君の人生は困難の連続だった。

まず、人が集まる場所に行くことができなくなった。それが、大手芸能事務所代表(故人)と出会ってしまったシチュエーションだったからである。N君はあの日から中年男性恐怖症になっていた。人が多く集まる時間帯の商店街などは裏道を通って避けなければならなくなった。映画館も暗闇の密室なので二度と行かなくなった。高校時代は半分引きこもりのような生活を送った。

その頃N君はチェスに出会った。N君はいつもチェスのことを考えるようになった。チェスのことを考えていると無のような境地になれるからだった。その感覚はよくわかった。盤を挟んでいると一切の雑音が消え、時間の感覚さえなくなるような体験を私もよくしたからである。

高校を卒業して就職したが、どの仕事も長続きしなかった。どの職場でも上司が中年男性だったからである。いつもビクビクしていなければならなかった。N君がチェス喫茶「R」に来始めたのはその頃だった。初めは恐る恐る「R」にやってきたのだが、誰も彼に積極的に話しかける人もおらず、N君にはそれが逆に安心だった。

大手芸能事務所代表(故人)に見初められるぐらいだからN君は美男子だった。女の子が放っておくわけがなく、付き合ったことも当然あった。しかしここでもN君は困難に出会う。当時のほとんどの人が誤解していたように、男性同士の性的接触によって罹るHIV(エイズ)に自分も罹っているのではないかとN君は恐れていた。よって、女の子との付き合いはどれも中途半端に終わった。他にも色々とN君の困難や悩みを聞いたが、もう充分だろう。

多くの被害者を出した大手芸能事務所は被害者に補償を行うとしているが、一体どうやってN君のような被害者にいかなる補償を行うというのだろうか。N君とはそれから数年して音信不通になってしまったが、今もきっと苦しい中で生きているのだと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?