プーシキン伝記 第一章 青年時代⑪
リツェイでは友情崇拝が花開いていた。しかしながら、実際にはリツェイストは ― これはまったく自然にではあるが ― いくつかのグループに分裂しており、グループ間の関係は時には甚だ衝突した。プーシキンはいくつかのグループに関わっていたが、一つも無条件には受け入れられなかった。たとえば、リツェイでは、全ての教授法によって奨励されていた文学の授業に強い愛着が感じられた。いくつかの手書きの雑誌が発行されていた:《リツェイの賢人》、《未熟なペン》、《満足と利益のために》などである。リツェイの詩作のリーダーは、少なくとも最初の数年は、イリチェフスキーであった。プーシキンがリツェイの仲間の中で熱心に、自分の詩作の首位を認めてもらおうと格闘していたことは予想できる。しかしながらB.V.トマシェフスキーが指摘しているように、プーシキンにとって明確な非常に重要な彼の若々しい詩情の特性(例えば、叙事詩的な伝統や代表的なジャンルを目標におくこと)は同級生の評価を得られず、若いプーシキンとリツェイの《文学的見解》との間に完全なる見解の一致はなかった¹。
¹B.V.トマシェフスキー. プーシキン,第1巻(1813-1824).モスクワ.-レニングラ
ード.,1956,p.40-41
もっとも親密であったのは、プーシキンとデリヴィグ、プーシン、マリノフスキー、そしてキュヘリベーケルの友人関係であった。これはプーシキンの心に深い痕跡を残した、全生涯にわたる友情であった。しかしすべてが簡単なものというわけではなかった。リツェイストたちの政治への関心は成熟し、彼らのあいだで意識の高い自由愛好の信念が形成された。リツェイの中から、生じつつあるデカブリスト運動への道筋が延び始めた:プーシン、デリヴィグ、キュヘリベーケル、そしてヴァリホフスキーは、アレクサンドル・ムラヴィヨフとイワン・ブルツェフの《神聖なるアルテリ》に加入した。プーシキンは参加の勧誘を受けなかった。それどころか、友人たちは自分の参加を彼に隠した。
のちに、プーシキンがリツェイで過ごした数年を過ぎ去った年月の高みから眺めたときには、すべてが解消されていた。友情への欲求が記憶を《修正していた》。まさに別離の後、リツェイは過去になり、思い出は絆となり、絆は年を経るにつれいっそう強く《リツェイの仲間》を結びつけていた。親交は弱まらず、むしろ強くなっていった。ここで一例を挙げよう。1817年6月9日、リツェイの卒業式でデリヴィグの別れの頌歌がうたわれた:
さようなら、兄弟たちよ!手に手をとって!
最後の時に抱き合おう!
永遠の別れの運命が、
おそらく、ここで我らを親しくした!
あなたたちは互いに視線をとめて
別れの涙をうかべている!
忘れないでください、友よ、忘れないでください
その友情を、その心からの友情を、
その栄光への強い志向を、
真実にはその ― はいを、虚偽には ― いいえを、
不幸なときには ― 誇り高き忍耐を、
幸せなときには ― みなに等しくあいさつを!
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