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奢るとか奢らないとかの話


先日地元のマック時代の後輩が「ボウリング行きませんか!」と誘ってくれたので、同期と後輩と3人で数年ぶりにボウリングをした。

3人だと当然1レーンしか借りられないわけで、どんなグループと隣り合うかの「グループガチャ」が大切になってくる。

その日は週末の夕方、しかも駅近のラウンドワンとあって非常に混みあっていたから、マナーの悪いグループと当たったら嫌だなぁと一抹の不安を抱えていたが、隣へ来たのは高校生くらいのカップルだった。

雰囲気から察するに彼氏が良いところを見せたくて来たようだ。

高校生特有のハスに構えた雰囲気でカーブを投げ、スコアはそこそこ。

対して彼女は初心者のようでガター連発、彼氏がたまに出すスペアやストライクに「すご!」とか「やば!」など、健気にリアクションをしていた。

「彼女楽しいんだろうか。」
と僕は思ってしまう。

彼を盛り上げようとする彼女に対して、彼女がたまにストライクやスペアをとっても彼氏のリアクションは鈍い。

彼の自己顕示欲を満たすためにただ付き合わされているようで、僕は居た堪れなくなった。

救いだったのは彼女のボウリングセンスがピカイチで、2ゲーム終わる頃にはこちらの
運動神経皆無3人衆よりも良いスコアを叩き出していたことだ。



だがふと過去の自分を振り返ってみると、僕の恋愛なんてあのイキリボウリングそのものだった。
いつも自分の欲望のまま振る舞い相手にばかり負担を強いて、「自分の幸せが相手の幸せ」という、相手の好意があって初めて成り立つ関係に溺れていた。

だから当然、愛想を尽かされ関係が破綻する。

そんな自分の愚かさに心の底から辟易し、嫌悪し、恋愛と少し距離をとって暮らしていたから、僕の考え方も変わってきた。

どちらがリードするでもなく、両輪で歩いて行きたいと思うようになった。

「男だから」や「女だから」に縛られないで、年齢や経験なんか度外視で、普段の家事から、デートプランから、二人で協力していきたいと思うようになった。

友人に、背が低いのによくモテる奴がいる。
「背が低い方が女の子と同じ目線で話せて良い」
と彼はいうが、本当にその通りだ。それは物理的な目線の高さだけではなく、普段の関係性という点でも絶対にそうあるべきだと僕は思う。

デートで行く場所も、僕が行きたいところへ付き合わすのではなく、二人が楽しめるところへ行きたい。でも彼女の行きたいところへ行きたくないわけではなくて、彼女の趣味や趣向を知ってもっと彼女を理解したいし、それらを僕も楽しめるようになりたい。

だから僕が行きたいところへもし一緒に行きたいと言ってくれるのなら、喜んで連れて行きたい。そのときは彼女が楽しめるよう、何か説明や準備が必要なら最善を尽くす所存だ。





─────────と、
ここまで考えたところで、心の中に住まう僕が僕に問う。

──結局恋愛に自信ないだけなんじゃないのか?
──相手にも責任取らせたいだけじゃないのか?



そう言われてしまえば反論の余地はないように感じる。

好きな音楽の話ならひけらかしたいと思ってしまう情けない自分は確かにいて、こと恋愛においてはそれがそこまで達していないだけなのではないだろうか。

例えば僕が女性を楽しませる鉄板デートをたくさん知っていて、さらに金銭的にも余裕があれば、リードして毎回ご馳走したいと思うんじゃなかろうか。


だからこそ、両輪で進むとは言ってもひとりの人間として自立して物事を判断する気持ちは持ち続けていたい。

デートでどこに行くのか、何を食べるのか、しっかり自分で考えて下調べして選択肢を持ち合わせた上で、その中から選んでもらえるようにしたい。

彼女無しでは何もできない人間にはもう絶対になりたくない。互いとも別のエンジンをしっかり積んだ上で、どこへ舵を取るか、それを話し合って分かち合える関係になりたい。


たまにはサプライズもしたいけどね。


それが僕がこの三年で出した答えの一つである。

 


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