【ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想を語ります。
みなさんこんにちは、ミヤマです!
何人かの方から「好きな作品について語って欲しい」とリクエストをいただいていたので、今回は、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の感想を語りました。
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注意事項
このnoteは映画の解説ではなく、まったりと映画の感想を語る記事です。
「なるほど、こういう解釈もあるんだなー」ぐらいの気持ちで楽しんでいただければと思います。
また、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」本編のネタバレが含まれますので、まだ見てないよ!という方はお気をつけください。
アニメシリーズ、旧劇場版、新劇場版の序・破・Q、漫画版のネタバレも含みます。
劇場版全体に関する感想の後、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で特に気になったシーンやキャラクターをピックアップしていきます。
ネタバレがイヤ!という方はここで回れ右でお願います。
⚠ ネタバレ注意 ⚠
感無量、最高のカタルシス
エンドロール中、宇多田ヒカルの「One Last Kiss」を聞きながらまず思ったのは、まさに「感無量」でした。
まさかここまでのカタルシスを味わうとは思っていませんでしたし、衝撃的な展開だった前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で「なんで!?」と思ったキャラクターのセリフ・行動も。この映画で全て腑に落ちました。
とくに中盤からラストにかけては、アニメシリーズ、旧劇場版、新劇場版序・破・Qも含めた過去の作品すべてを「なかったこと」にせず、全作品を受け止めて包み込んだような展開で、むしろ過去の作品なしには作り得ない傑作でした。
前に進むための「繰り返しの物語」
エヴァの新劇場版シリーズの企画が発表された際、「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」という所信表明も同時に発表されました。
その所信表明で庵野監督は、下記のように語っています。
“「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。”
ずっとこの所信表明が心に残っていたのですが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見ながら、まさにこの表明の通りのものを作り上げたんだ……と、庵野監督が今まで背負ったきたモノの重さや、創作への思いを想像して胸がいっぱいになってしまいました。
こういう制作陣の想いにすこぶる弱い😭
また、この所信表明は「繰り返しの物語」の部分が大きくピックアップされることが多く、
「新劇場版の海が赤い→旧劇のラストで海が赤くなった→旧劇の世界線上で物語を繰り返している」
みたいな考察をよく目にしていた方も多いかと思います。
新劇場版の物語設定としてはすごくおもしろい考察だなー!ってめちゃくちゃ感心しましたし、まさにこういった考察が出ること自体を制作側もしっかり狙っているとは思うのですが、でもきっと、この所信表明の本質は「ひたすら立ち上がって、わずかでも前に進もうとする、意思の話」の部分なのですよね。
エヴァという物語の中で、困難の中なんとか立ち上がろうとするシンンジの話であり、そして自分のために、みんな(制作スタッフ&ファン)のためにエヴァという文化を作り上げた責任を自覚し、自分が想像しうる以上のことをやり遂げようともがく庵野監督自身の話でもあったんじゃないかなと。
そして見事、浅間通りやり遂げた庵野監督の意志の強さたるや。本当に今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を完成されてくれたこと、いちファンとして感謝しかありません。
「個人的な話」こそ、共感できる
エヴァがここまでの社会現象になった理由をよく考えていたのですが、
例えば、
・世界にとんでもない影響力を残したキリスト教・聖書を基に構成されているから
・あえて謎を残し、考察を掻き立てるような構成・マーケティングが成功したから
・今までにないメカデザイン・キャラクターの心理描写を展開したから
・当時の社会問題を巧みに組み込んだから
など、もちろん理由はたくさんあると思います。
ただ、わたし個人としては「エヴァの何が君の心に一番響いたんだい?」と聞かれれば、作品を経るごとに「庵野監督の私小説」に近いような作品になっていったからという理由が自分の中で一番しっくりきています。
あるインタビューで宮崎駿監督が「庵野は血を流しながら映画を作る」と話していたのですが、ほんとにその通りで、庵野監督は自分の好きなものや今までの経験を惜しむことなく作品に投影していく方なんですよね。
とくにこの新劇場版では、「庵野監督の血肉でできている」という点がよりわかりやすく描かれていました。
冒頭の戦艦マリオネットや戦艦爆撃しかり、モヨコ先生の絵本しかり、マイナス宇宙でのジオラマ戦しかり……
これって本当に凄まじいことで、そもそも流せる血肉がないと作れないんですよね。
並大抵の血肉じゃないですよ。
庵野さんの血肉は、宇宙戦艦ヤマトであり、ウルトラマンであり、仮面ライダーであり、ゴジラであり、宮崎駿監督の作品であり、安野モヨコ先生とその作品であり、今まで作り上げてきたすべての作品であり、そして生まれ育った山口県宇部市であり……
彼が好きで何度も何年も愛してきたもの全て。
その全てを「作品」としてアウトプットできるってことがそもそも凄すぎますし、それぞれの作品だったり人だったりへの愛の深さが尋常じゃないということが、新劇場版で痛いほどよくわかりました。
寝食を疎かにするほど好きなものがあるというのは、創作する上でこれほど頼りになるものはないなってしみじみ思い知らされた2時間半でした。
──ということで、ここまでが劇場版全体を通しての感想になります。
つづいて、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で特に気になったシーンやキャラクターをピックアップして話して行こうと思います。
冒頭パリパート
新劇場版から登場した新キャラクター真希波・マリ・イラストリアスの鼻歌・活躍から始まる「シン・エヴァンゲリオン劇場版」。新しい作品として生まれ、今までのアニメシリーズとも旧劇場版とも違う新たな終わりを迎えるんだろうな……という予感を感じさせてくれる始まり方にまずグッときました。
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」、マリの活躍が凄まじいんですよ。
冒頭パリでのエヴァアクション、めちゃくちゃカッコイイんです。
マリの操縦とエヴァ戦闘の見せ方が最高で、目の前に円形CGビジュアルが出てきた思ったら、それを車のハンドルのように扱うマリ。腕周りの可動域が特殊な作りになっている8号機β臨時戦闘形態をめちゃくちゃカッコよく動かすじゃないですか……!
ワクワクしてこの最終章を見に来た観客の心を一気に掴む素晴らしい演出だなとおもいました。このシーンについては以前パリで特別上映されているのですが、こりゃ会場沸いただろうなとしみじみ思いましたね。
さらにたたみかけるように、ミサトさんたちヴィレのメンバーが乗り込む母艦ヴンダーに搭載された戦艦の盾(!?)が多数登場したと思いきや、胴体と足だけのエヴァと恐ろしい動き&キャラデザの陽電子砲が到着。
新劇場版4作目にしてまだ見る側に「なんじゃそりゃ!?」って思わせてくれるのが本当にすごすぎます。
しかも盾として使っている戦艦に、母艦であるヴンダーから細い糸みたいなもので吊られているんですよね。(ATフィールドの応用?)
映画とか特撮によく使われる飛行船とか宇宙船とか浮かせるための撮影手法のオマージュだと思うのですが、普通の映画では特殊効果で消すはずの糸をあえてエヴァでは演出として見せることで、画面に新鮮さと特撮への愛をもたらしていて、このシーンでまさに「好きなものがあるってほんとに強いなー」と思いました。
シン・ゴジラのときも在来線を爆薬がわりに特攻させるシーンがありましたが、こういう演出ってわたし自身が鉄道オタクじゃなくても不思議とアガっちゃうんですよね。もうそのオマージュ先への愛の深さが透けてみえて、そのことに感動しちゃうんです。
マリの目的
パリの戦闘が一段落した時、マリが「必ず迎えに行くよ、ワンコくん」みたいなセリフを言うんですよね。
この一言で、ようやくマリというキャラクターがわたしの中でカチっとハマったきがしました。
マリの目的(マリ自身が何をしたいかという意味での目的&制作陣から見た物語を動かすキャラクターとしての目的)が、まだQの段階では「新しい展開をもたらす存在」ってこと以外はうまく腑に落ちて無かったんです。
ただ、今回この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でこの「必ず迎えに行くよ」っていうセリフを聞いた時、「あッ、やっぱりマリって救いの人だ」って思ったんですよね。
色んな考察で、マリは庵野監督のパートナーである安野モヨコ先生じゃないかと言われきましたが、わたしもこのセリフを聞いて、「モヨコ先生だよね!?!!??」と同じく思いました。
ただ、この先の展開を見てるとモヨコ先生いっぱい出てくるんですよ。
わたしはアスカの中にもミサトの中にもモヨコ先生を感じたし、レイを救う存在として第三村という大きな世界の中にも感じました。(モヨコ先生の絵本も登場しますしね。)
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」には色んな優しさが登場するんですが、その優しさの端々にモヨコ先生がいるんですよ……
もうこれに関しては、庵野監督がモヨコ先生を大好きであることを知っていたからというのも大きいと思います。
庵野監督って究極の愛妻家でして、この点についてもっと知りたいという方はぜひ、安野モヨコ先生の「監督不行届」と「ANNORMAL」を読んでいただきたい。ぜひとも!ぜひとも、読んでいただきたい……!
どちらも庵野監督がモヨコ先生のために文章を寄稿しているのですが、その文章がとんでもない破壊力でして、あまりの愛の深さにいっそ泣けてきます。
あとは風立ちぬの演技に関するインタビューとかもすんごいです……気になった方は、ぜひ調べてみてください。
第三村 - それぞれの優しさ
放浪していたアスカ・シンジ・レイ(仮)が、ケンスケやトウジと再開するシーン、どれだけ嬉しかったことか……!シンジは直前にフォースインパクトを起こしかけた上に目の前で大好きなカヲルが死んでそれどころではなかったので、シンジの分もわたしが喜んでおきました。
この第三村では、シンジが再び立ち上がるまでの心の動きをほんとに丁寧に描いていて、この第三村でのシンジと新劇場版の途中でエヴァを作れなくなった庵野監督、すごく重なるなあと思いながら見ていました。
とくに第三村は架空の田舎感というか、庵野監督が求める「ふるさと=得難い優しさ」の象徴でもあるのかもしれないなと。
とくに心に沁みたのが、ケンスケ、トウジ、アスカ、レイ(仮)、それぞれの全く異なる優しさの形ですね
まずもって、ケンスケ。良い男過ぎ問題。
人の心を読んで、相手に負担を掛けすぎないように寄り添える姿勢に震えました。そりゃアスカも懐きますよね。
エヴァの呪縛に縛られて14歳の姿のまま命がけで何年も戦い続けている中、様々な困難を乗り越えた上で身も心も大人になったケンスケが、どれだけアスカの支えになったのか考えると、もうちょっとこれだけで泣きそうです。同人誌で読みたい。誰か描いて……。
ラストシーン、ケンスケのところにアスカのエントリープラグが到着しているのを見て、「ああ、やっとアスカにも帰れる場所ができた」ってめっちゃ泣いちゃいましたよ。
ケンスケはシンジに対しても対応が的確に大人で、傷ついたシンジのための居場所も提供してくれるのはもちろん、前に進むための希望もちゃんと見せてくれるんですよね。
その希望の象徴がまさに「加持リョウジ」という少年だったんですが、あれにはたまげました。彼でまた1本作品作れますよね……!?誰か!!??!!?!頼むよ!??!!
対してトウジはケンスケとはちょっと逆で、人の心を読み過ぎないところがいいんです。
シンジに対して「この第三村にはやく馴染んで欲しい」って心の底から言えるのは彼だけ。ケンスケも、映画を見ているわたしたちも、「それはないだろうな……」ってわかっている中、トウジのように真正面から「ここにいていい、むしろここにいてよ」って言ってくれる人がいることはものすごい救いですよ。
選択肢があるだけで自分が本当に成し遂げたい道を選びやすくなるというか(トウジはもちろん「本気でここにいてくれ」って思っているんですが)、彼の優しさもまた、シンジの背中を押してくれたなと思いました。
アスカとレイ(仮)も全く異なる優しさをシンジに与えていて、アスカの乱暴なおせっかい(無理やりレーションを食わせる等)はシンジが体力的にも最速で回復するには欠かせませんし、レイ(仮)の無垢なる犠牲は最後のひと押しになりましたよね。
この第三村がシンジにもたらしたものがあまりにも大きすぎて、円盤化の際にはぜひこのシーンのメイキングなんかをもっと深堀りして欲しいなと思います。
ミサトの決意・サクラの想い
シンジがヴンダーに乗り込んだ後、ここからどう話を持っていくのかなと思ったのですが、やはり物語を大きく進めるのはミサトさんでしたね。
そして意外にも、もうひとり重要なトリガーになったのがトウジの妹、鈴原サクラちゃん。
サクラがシンジを撃とうとしたシーンで、「もうエヴァに乗らんで済みますから!ちょっと痛いだけです!」と言ったサクラのセリフを聞いて、彼女のシンジに対する複雑な心境がようやく理解できた気がしました。
「もうエヴァに乗らないで!」というのは、社会に対する被害を責め立てるだけの言葉ではなく、シンジにこれ以上あらゆる重荷・責任を背負ってほしくないという優しさを感じたんですよね。
サクラはわりと複雑な立ち位置のキャラクターで、エヴァに傷つけられたことも、逆にエヴァに救われたこもある存在。だからこそ、このセリフが心に響くなあと。
そして畳みかけるようにキメてくれるのが艦長、ミサトさんですよ。ミサトさんがサクラの弾丸からシンジを庇って帽子を落としたあたりからはもうずっと泣いてました。多分ここでこらえきれなくなった方、結構多いんじゃないかと思います。
シンジに「人類を救う」という重荷を背負わせなくないと一番思っていたのはミサトさんに他ならず、だからこそ、今度こそ絶対に関わらせないという強すぎる意思こそがあのQでのミサトの言動であり、DSSチョーカーだったんだろうなと思い立ち、あらゆる要素がカチッとハマった瞬間でした。
ミサトさんはシンジにとって身近な素敵なお姉さんであって、上司であって、たぶん姉であって、きっと母でもあって、いつだって最後にシンジを送り出すのはやっぱりミサトさんなんだなって……エヴァシリーズを通して得た思いが集結する、心に残るシーンでした。
マイナス宇宙でのオマージュ・メタ表現
シンジとゲンドウが対決・対話する決戦の場、マイナス宇宙。これまた最高の演出環境を考えたなー!ってめちゃくちゃに感動しました。
ゲンドウ曰く、マイナス宇宙とは
・神となった存在がたどり着ける場所
・デバッグルーム
・運命、世界を変更できる場所
・我々人類には到底認識できない
ゆえに、我々人類にも認識できるように変換されている……って劇中で結構丁寧に説明してくれていましたが、マイナス宇宙を舞台にすることで、見慣れた街や部屋のジオラマで戦うことになるのですが、庵野監督が大好きな特撮というオマージュを取り入れるにはこれ以上ない設定ですよね!
また、劇中にこういった丁寧な説明が入るのはエヴァでは結構珍しく、改めてシン・エヴァはわかりやすく丁寧に視聴者を同じ目的(エヴァからの卒業)に導こうとしているのをひしひしと感じますね。
さて、オマージュを取り入れることが簡単できるようになるとどうなるかと言うと、メタな視点で物語を構成することもできるようになるので、リアルとフィクションを融合しやすくなる。つまり、「エヴァを作ったり消費したりしている私たち自身の世界」と「エヴァの世界」をリンクさせることができるようになります。
エヴァの過去の作品、庵野監督が歩んできた人生や庵野監督が愛してきたモノはもちろん、わたしたち視聴者まで丸っと取り込んで、全員が「エヴァの呪縛」から卒業できるように終わらせるつもりだ!!!と思って震えました。庵野監督、天才が過ぎる……
冬月先生の導き
今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ですごく好きになったキャラクターがもうひとりいて、それがなんと冬月先生なんです。
そもそも冬月先生は、ゲンドウ、ユイ、そしてマリが所属していた研究室の教授だったんですよ。(※漫画版参照)
大学の教授って「教える人」というよりは「導く人」だと個人的には思っているのですが、冬月先生は、
・ユイが初号機に取り込まれてしまったこと
・ゲンドウがユイを取り返すためにあらゆる生命を犠牲して人類補完計画を完遂させようとしていること
その全てを自分の導きの結果としてしっかり受け止めていて、最後の最後まで教え子たちの望みを「導くこと」で叶えられないかと冷静に分析した上で行動しているように見えてならないんです。
だからこそ、冬月先生はラストでマリを導くために(ひいてはユイの望みでもあるシンジをちゃんと救うために)エヴァ9〜12号機を残していったりして、なんだったら人類補完計画を止めるタイミングも含め、冬月先生いなかったらこのエンディングにならなかったんじゃないの!?ぐらいの立役者ぶりに驚きました。
この映画にして、ようやく冬月先生を少し理解することができました。
イスカリオテのマリア
冬月先生がマリのことを「イスカリオテのマリア」と呼ぶんですが、色んなところですでにたくさん解説されている通り、キリスト教(聖書)におけるイスカリオテのユダとマグダラのマリアをかけ合わせてマリを表現しているセリフですね。
ユダってキリスト教側からしたらいわゆる「裏切りモノ」の象徴なので、「イスカリオテ」の解釈については、マリが冬月&ゲンドウに敵対する行動をとっていたからという考察が結構多い印象だったのですが、個人的には「違う場所からきた存在」「違う場所に行った存在」という解釈を加えるとさらにしっくりくる気がします。
まず「違う場所からきた」という点についてですが、ユダはイエスの弟子の中で唯一出身地が違うんですよね。
マリは今までのアニメシリーズや旧劇場版にもおらず、新劇場版で突如新キャラとして登場してきたことを考えると「ユダ(人名)」ではなくあえて「イスカリオテ(地名)」の部分を取ったことと結構合致しますよね。
また、劇中で勝手にエヴァに乗って戦ったこもとあったりと所属が非常に曖昧で、どの側にもついていない感じ(=裏切り者かどうかも微妙な立場)がまさに「イスカリオテ」にぴったりだなあと。
「違う場所にいった」という点についてですが、漫画版ではマリはイギリスに留学して、研究室から去るんですよね。
また、「裏切りモノ」という点でみても、冬月・ユイ・ゲンドウにとっては、極端な言い方をすると「ただ違う場所に行ってしまった存在」にとどまらず、この研究室のメンバーで進めていたエヴァという壮大なプロジェクトを放棄して、裏切って消えた存在でもあります。
さらに、マリはこのシン・エヴにおいては聖書をベースに構成された「エヴァが存在する世界」を終わらす役割の大きな部分を担っている(=ユダ=エヴァ世界にとっての裏切り者)という点でも、マグダラのマリアがイエスの復活を見届けたように、シンジくんを救い出し、シンジくんの新たな人生を一緒に迎えたという点でも、「イスカリオテのマリア」という呼び名はあまりにもピッタリ過ぎるなと、終わってから色々調べてしみじみ思いました。
まさかマリ今作でここまでのことを成し遂げてくれるとは思わず、嬉しい驚きでした。
庵野監督によるエヴァの終劇
シンジとマリが山口県宇部市の駅のホームを階段を駆け上がり、実写パートに溶け込むように終わっていくあのラストシーン、宇多田ヒカルの曲を聞きながら、「あーーー今度こそエヴァはほんとに終わったんだ」と凄まじいカタルシスを味わいました。
正真正銘、庵野監督のエヴァは「終劇」を迎えて、庵野監督自身も、エヴァの物語に存在したすべてのキャラクターたちも、エヴァをずっと追い続けてきたわたしたちも、全員がエヴァの呪縛から卒業する時がとうとうやってきました。
「さよなら」は、また会うためのおまじないと劇中で言っていましたが、これはエヴァが庵野監督以外の手で作られるような作品へと進化した……とわたしは受け取りました。いつか新たな人々の手で、新たなエヴァが生み出されることを願います。
庵野監督、ありがとうございました。さよなら、全てのエヴァンゲリオン。
きっとまた会える日を楽しみにしています。
以上、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の感想でした。
ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。
この感想を語ったことで、わたしも本当の意味でエヴァを卒業できた気がします。
それでは、ミヤマでした。さよなら!
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