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『第一夜』

 こんな夢をみた。

 私はまだほんの幼い子供であった。かんかんと暖房がよくきいた部屋で目が覚め、寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ出てみると、父が机に向かって静かに物書きをしていた。

「眠れないのかい」

 ペンを握ったまま、父がこちらを見るわけでもなく話しかけてくる。そう言われてみて初めて部屋の時計を探してみると、振り子のついた大時計が、深夜を告げていた。

「そうみたい」

 答えると、父はすっと立ち上がった。

「その歳でこんな夜に考え事かな。ホットミルクでも作ってみるか」

 と、台所へ向っていった。私は無言で頷き、父の後を追おうと思ったが、父は座っておいでよと静かに笑った。

 しばらく、椅子の上で床に届かずに浮いてしまった足をゆらゆらさせていると、父がホットミルクを持ってきた。私はミルクがなみなみに注がれたコップに口を付けようとして、あまりに熱いのでそっと顔から離した。

「まだ熱かったかな」

 と父は笑った。私はホットミルクが飲める温度に下がるまで、コップを持ったまま窓へ近寄った。田舎の深夜である。人影はまるでなかった。すると、ポツポツと星が降ってきた。おや、と思っていると、みるみる星は激しく降りだし、次第には土砂降りになってしまった。

「今晩は天気が荒れるらしい」

 父は静かに言った。私は夢中で、空から星がきらきらと降り注ぐ様を眺めていた。

「さあ、飲み終わったらもう一度、ベッドに入るんだよ。寝れるといいね」

 私はいつの間にか飲み干して空になっていたコップをそっと洗い、一言おやすみ、と父に告げて寝室に戻った。


 翌日、あちこちに星溜まりができていた。天気はすっかり晴れていたが、坂道なんかでは、まるで天の川のように星が流れては、排星溝へと吸い込まれていった。空には魚が、悠々と羽ばたいている。今日は、日差しが落ち込んだ昼過ぎから、父と一緒に家から歩いて少し距離のある、森の湖を見に行くことになっていた。私が住む町は、観光地でもなんでもないので、森にはほとんど訪れる人がいない。しかし、それはとても美しい湖であった。昨日の土砂降りのせいで、たくさんの星が溢れている。まるで満月のように一面が輝いていた。あまりの美しさに、ただぼうっと眺めていると、湖にたくさん浮かんでいる星の中に、とても懐かしい感じのする星があった。

「お母さんだ」

 思わず私は父に向って叫んだ。

「あそこにお母さんがいる」

 父は少し驚いた様子で、私が指をさす方を見つめた。

「確かに、あれば母さんかもしれないなあ」

 私は居ても立っても居られなくなり、湖へ入ろうとした。あれが母なのであれば、母だったものであれば、何としてでも取ってこなければならないと思ったのだ。父は慌てて私を引き留めた。

「湖に入ってはいけないよ。ここの湖はとても水が綺麗だから底が浅く見えるが、本当はとっても深いんだ」

「でも」

 父は首を縦に振らなかった。私はじたばたと父の腕の中で暴れて見せたが、父はがんとして私を離さなかった。

「お母さん、せっかく見つけたのに」

 母が星になってしまった日から、毎晩夜空を見上げて母を探していた。やっと、見つけることができたのに、一緒に家に帰ることができないというのがとても悔しかった。

「お父さんは、寂しくないの」

 私は、母であったはずの星を手に取りたい一心で父に聞いた。父は静かに

「寂しいさ」

と答えた。

「でもね、星が地上に帰ってきたということは、母さんはもう生まれ変わったということなんだ」

 その時、私は父の顔を見ることが何となくできなかった。圧倒的な悲しみと寂しさと、湖の残酷にも思える美しさに、私たちは無言で湖を、星を眺めていた。ずうっと、ずうっと、眺め続けていた。

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