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24.“教え”という羅針盤

神仏に対し何らの信仰心も持っていないけれど、己の人生に自ら価値を見出し、充実した日々を送っているような方に時々出会うことがある。

反対に、特定の宗教教団に入信し、“人生の道しるべ”とも言うべき指針を指示されていながらも、自らの不平不満に振り回され、傍から見てどうも幸せそうには見えないといった方も少なからず知っている。

いずれの人にも触れていると、

じゃあ、信仰って何の為にあるんですかねぇ…(´ー`)??

という疑問がいやでも湧いてくる。

信仰対象を持っているということや、あるいはその深浅(といっても、客観的に可視できないけれど)等がその人の体感幸福度と必ずも一致しないように感じてしまう。

では一体、“信仰”は私達に何をもたらしてくれるというだろう。


信仰は“信用”を担保する基軸

天理教道友社より季刊発行(2024年現在は年1回)されている教外者向けの雑誌「すきっと」誌で、ベストセラー『国家の品格』等で有名なお茶の水女子大学理学博士・藤原正彦氏が次のように語っている。

個が中心になってくると何かに額づくといったことが薄くなってきます。実は、学問に関しても、何か大いなるものに対して額ずく心は極めて大切なことなのです。
例えば、数学の天才・岡潔は、毎朝、念仏を一時間唱えました。そうすると真理が見えてくる。こうして彼は、当時の世界の三大原則を一人で解いてしまった。あるいは、インドのラマヌジャンヌという数学者は高校までしか出ていませんが、一生の間で数千もの定理を発見するのです。この天才も毎朝一時間、ヒンズーのお祈りを捧げました。つまり何かにひざまずく、額ずくそういう気持ちが独創を生むのです。
イギリスのケンブリッジ大学では、戦後だけで四十数名ノーベル賞を出していますが、彼らは、何に額ずいているかといえば、伝統に額ずいているのです。
例えばトリニティカレッジといってニュートンの出身校ですが、十七世紀と全く同じ様式で今も夕食を食べます。全員真っ黒いマントを着て蠟燭の明かりで食べています。ノーベル賞級の科学者が、三百五十年からの伝統を踏襲していることに喜びを感じているのです。つまり伝統に対する畏怖、敬愛です。

(中略)

宗教だってそうです。例えばパスポートにノーレリジョン(無宗教)と書けば、誰も信用してくれません。どんな宗教でも信仰さえあれば、この人は一応倫理道徳的には一つの基軸を持っているとみなされる。日本人は入国審査のときに宗教のところをノーと書いてしまいます。そうすると、疑いの目で見られます。つまり、拠り所のない人は信用されないということですね。
なぜ信用されないかというと、拠り所のない人は、その場その場で自分の倫理、理性で考え行動判断する。しかし、自分の倫理、理性というものは全く頼りのないものです。論理的思考というものは九九パーセント、自己正当化にすぎませんから、この人は利害損得だけの人だと思われてしまいます。

すきっとvol.2 藤原正彦・上田嘉太郎対談「確かな拠り所を持って生きる」より


…ふむふむ。国際社会において信仰とは“それを信じることで幸福を獲得する手段”というよりも、“自分の外側に倫理・道徳という基軸を持っているという信用を得る為の評価基準“となるようだ。

無宗教者は、傲慢である。

利害損得感に偏った自己中心的な人だ。

…ややもすればそんな風なレッテルを貼られてしまいかねないらしい。


藤原氏は更に、人間が生きていく過程で物事の“善悪の判断”を下していく座標軸の必要性も説いている。

何が座標軸かといえば、例えば宗教であり、あるいは伝統、情緒や家族の絆などがあります。


宗教、伝統、家族の絆etc…。

…人間形成には自分の外側の座標軸が必要不可欠なんだなぁ(・ω・)


羅針盤は活用するためにある

ここまでの話から感じたのは、“宗教への帰依”“深い信仰心”が最重要というよりも、要は自分の外側に座標軸があるどうかということが大切だということだ。
言い換えれば、宗教はあくまでもその座標軸の中のひとつに過ぎない、という解釈も成り立つ。

宗教に入信したからといってただちに“人生が良くなっていく“わけではなく、ましてや天理教教団の信者登録をしたというだけで安心や幸せが黙っていても自動的にやって来るなんてことは絶対にない。何かの特定宗教を信仰しているのに日々に満足していないように見える人がいるのは、そういうことだからだ。

宗教=人生航路の羅針盤

信仰≠幸福を無条件に約束するもの


たとえ航海に出ても、携えた羅針盤を飾っていたり、しまったままにしていたとしたら、それは全くの無用の長物となってしまう。それでも行き当たりばったりでどこかには辿り着くかもしれないが、それがどこなのか、本当に行きたかった場所なのかは不明だ。

だから、この天理教の信仰を自覚し、その道に足を踏み出した以上、教えに根差した生き方を実践していくということが肝心で、そうでなければせっかく信仰も座標軸としての意味が薄いものになってしまう。


結局のところ、生きているということは多くの誰かに、大きな何かに支えられているという謙虚さを抱くことで、そこでようやく座標軸が“確かな拠り所”としての意味を立ち上げていくのかもしれない。

【2013.7】


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

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