3人の父親がいる波乱万丈な私の家族の話①
突然ですが、私の家族の話でもしようかなと思います。
今でこそ笑って語れますが、家族のことは乗り越えるまで長い歳月がかかりました。辛く苦しい記憶ばかりですが、その分自分が強くなった出来事でもあります。なのでいつかこういった形でまとめたいと思っていました。
タイトルにある通り、
現在私は家族と疎遠状態です。
最新の話はこちらです。
よろしければご覧ください。
家族構成を簡単にまとめると、
父親は生みの父、育ての父、全く知らない戸籍上の父と、これまで私の「父親」になった人は3人います。
母親と姉に関しては今現在私から疎遠状態を望んだ形になります。
今現在は、実の父親、母親、姉はそれぞれ結婚し、皆それぞれ子供も産まれたようです。私含め、皆それぞれ生涯のパートナーと出会い幸せな家庭を築けていることは本当に良かったなと思います。
長くなるかと思いますが、読み物としても面白いと思うのでよければご覧ください。
《誕生〜小学3年生/母子家庭の幼少期》
1996年冬、私は千葉の田舎で誕生した。母親は当時28歳、そして父親は既にいなかった。このご時世、片親で産まれることは特段珍しいことでもないだろう。
というのも私がお腹の中にいる間に、バンドマンだった父親は音楽関連の繋がりのあった女性と浮気をし、そのまま離婚となったらしい。養育費は払われていなかったと記憶しているが、母親からあまり詳しくは聞かされなかった。
大人になってから思うが、母親は凄いと思う。というのも、父親の悪口を私たち姉妹の前で一切口にしなかったのだ。裏切られた憎しみもあったと思う。それなのに、小学校に上がる頃には定期的に父親の家に遊びに行かせたり、姉には「だんだんぱぱに似てきたね〜」と言ったり、とにかく円満を装っていたのだ。当然私たち姉妹は「(そんなに仲良しなのに)なんでパパとママは離れ離れなの?」と口にし、その度に母親は困ったような顔をしていた。
話は戻るが、離婚後はシングルマザーとして女手一つで私たち姉妹を育ててくれた。当時母親は配達の仕事をしており、朝早くから夜遅くまで家にいなかったのを覚えている。
ある日、母親が風邪を引いたとき「ピノが食べたい」と言った。その日の夜私たち姉妹はコンビニまでお使いに出かけた。当時小学2年生だった。それから母親は風邪を引くと決まって「ピノが食べたい」と言ったので、当時の私は、あのアイスには何か特効薬でも入っているのか、と思っていた(単に母親の大好物というだけだった笑)。
集合団地での女三人暮らしはとても楽しかった。幸せだった。貧乏なはずなのに、母親は季節のイベントの飾り付けを欠かさず行った。ひな祭りでは立派なお雛様を出し、クリスマスには家中がサンタさんの装飾でいっぱいになった。季節の行事毎は欠かさず行う人だった。1ヶ月分の給与をはたいて学習机も買ってくれた。ランドセルも相当キツかったようだ。私が周りの子たちに引け目を取らないようにするためか、ゲームボーイやたまごっちも買ってくれた。
家族3人とても仲が良かった。今思えば、全ては母親の努力のお陰だと思う。
一体どこから狂ってしまったのか、それは2人目の父親との再婚を機にだんだんと歯車がずれ始めたのだと思う。
《小学4年生〜高校2年生/再婚・2人目の父との出会い》
小学3年生が終わる頃、ある日母親から「2人に会わせたい人がいる」と告げられた。週末のお昼に3人でおしゃれをして出かけた。
「初めまして」、第一印象はとても優しそうなおじいちゃん。母親からこの人がお父さんになるんだよ、と紹介された。当時の私はよくわからず、ふーんくらいのリアクションをしていたと思う。当時の私は知る由もなかったが、母親は私と姉の学費を賄うために愛のない結婚をしたという。お見合いサイトで知り合った、年齢差20歳ほどの社長だった。選んだ決め手は「プロフィール写真でこの人だけが唯一歯を出して笑っていたから」とのこと。おやじギャクが好きな、私にとってはただいい人だった。
小学4年生に上がるタイミングで転校し、いわゆるタワーマンションでの生活が始まった。母親は専業主婦になった。
姉は小学校卒業後、公立の中学へ進んだ。噂通りの治安の悪さだったと言う。それもあってか、私は母親から中学受験するよう勧められた。無事中高一貫校に合格し、私は中学・高校となんの変哲もなく学生時代を過ごした。母親の覚悟と我慢のお陰で、私と姉は充実した学習環境で何不自由なく勉強やスポーツに打ち込むことができた。海外旅行にもたくさん連れて行ってくれた。今考えると、子連れの親子にここまで注いでくれたのは、当時の父親は物凄く寛大で優しい人なのだなと思う。
忘れもしない高校2年生の11月のある夜、悲劇は突然訪れた。
それが私の人生の転機となる出来事となる。
②へ続く
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