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個人としての人間 -人間失格-

 果たして、葉蔵は、本当に人間失格だったのだろうか。失格であるとするならば、その「人間」とは何なのか。
 葉蔵を通して、「人間」とは、あるいは「自分」とはを、とことんまで考えさせられた。
 私には、タイトルの「人間失格」、また、本文中の「人間、失格」は、ただ「人間」という集合からあぶれただけの意味に感じられた。狂人と判断され、ノーマル、すなわち「人間」で無くなった。いさせてもらえなくなった。そういう意味での人間失格。そうなった原因は酒か、薬か、女か。表面的にはそれらが原因に見えるだろうか。本質的には意思を出せなかったこと、「拒否の能力の無い者の不幸」だったのだろう。また、それは相手や自分を傷つけることへの恐怖、優しさとも言えるだろうが、そこからきているものだろう。ある種、とても人間らしく感じられる。結局は、自身で失格と述べてはいるが、「世間」から表面的に判断され、集合からあぶれた「人間失格」だと感じた。
 「人間」とは何か。それは、自身や他人、環境と向き合い、迷いながらも進んでゆく者であると私は考えている。彼は、理解できない恐怖の対象として人間を捉えていた。だが、それでも彼なりに他者や世間と向き合っていた。「お互いの不信の中」で、多くの人は平気であるのに、彼がそうでなかったのは、彼には周りが見えすぎていたからだと思う。どこか俯瞰的なような、冷めた目で世間を見ていたかもしれないが、周りの影響を強くうけ、世間によって彼が形成されていったと感じた。本文にあるように、人間の世界において、すべてはすぎていくというのは真理かもしれない。そんな世界で、自己を感じ、周りを感じ、もがきながら進んでいくものが「人間」だと私は捉えている。そして、その意味で葉蔵は、純粋なまでに「人間」だったと言えよう。

 私は、葉蔵に共感できる点があった。それは「人間を極度に恐れている」という点だ。そしてまた、それでいて「人間を、どうしても思い切れなかった」ことも理解ができる。ただ、そのことに対する解が「道化」であることが私とは違う点だ。私は、人間への恐怖を感じつつも、自身も人間であり、(個人としてか世間としてかは分からないが)誰かの恐怖の対象かも知れず、つまり自分も人間として生きていると感じている。ただ、道化の葉蔵と人間の私との本質的な違いが何かは分からなかった。私も偽善で打算的で、尊敬への恐怖や自分を暴かれることの恐ろしさも理解できる。他人への「愛」を私は持っているという点が違いなのだろうか。だが、彼にも愛があったようにも感じられるし、実は私にも愛の能力がないようにも感じられる。やはり、私と彼の違いは「必死の奉仕」にあるのではないだろうか。人間を恐れていても、彼ほど求められた振る舞いをし、周りに好かれる行為はできない。これが彼を道化たらしめ、そして私との差だと思う。また、その奉仕は人間への恐れの大きさからきており、つまり私は本当の意味では共感できていないのかも知れない。

 「世間というのは、君じゃないか」
 葉蔵は、世間というものは個人なのではないかと考えるようになっていった。個人の意見をまるで皆の相違かのように語る人間は現代社会にも存在するだろう。私もそういった振る舞いをしてしまう時がある。主語が大きい方が説得力も増し、一般化した方が楽なのもわかる。だが、できるだけ個人に対し、個人として向き合うべきだと感じた。個人という「要素」が集まって、人間や世間という「集合」が成立している。要素である個人が、まるで集合全体かのように語るのは、奇妙で恐ろしい。また、集合やラベルだけで個人を判断するのも違う。葉蔵は、人間の世界にいるから、人間らしく振る舞おうとしすぎたのかも知れない。難しいことではあるが、個人が個人として個人と向き合っていくというのは必要であると思う。

 本書を通して、「人間」について考えさせられた。周りの存在や事象と向き合いながら、迷いながらもすぎていく存在。集合の中で、個人として個人と向き合っていく存在。そのように感じた。また、葉蔵に自身を投影し、感情移入し、共感して読んでいった。私は彼の理解者だ、と思う瞬間もあったが、やはり理解できない場面も多々あった。彼にも、しっかりと恐怖を感じた。やはり、彼も「人間」だったのだと私は思う。

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