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-故郷-そこにある浪漫と儚い記憶

松浦嵩です。お疲れ様です。皆さんは、生まれてからこれまで、どのような場所で人生を紡いできたでしょうか、?僕は転勤族だったので、今まで4つの町に住んできました。今回は、大きく4つの町の特徴と、それぞれの魅力を僕の感性を添えた言葉でお伝えします。「町」はその人の「魅力」を映し出す鏡であると感じています。共に旅をする気分で見ていただけたら嬉しいです。


1.葉山

僕は、2003年の2月26日に逗子の丸山産婦人科で生まれました。丸山産婦人科は、立派な建物で、地域の中でもパッとみて立派な建物とわかる建物です。生まれた当時の記憶はあんまり覚えてなくて、でもたくさん泣いたことだけは今でも覚えてます。産婦人科は逗子なのですが、覚えているのは葉山のおばあちゃんの家にずっといたことです。多分5歳くらいまで幼稚園入る前までは、葉山で過ごすことのほうが多かった気がします。葉山のおばあちゃんの家は、小高い山が見えて、川や海も近い、自然に囲まれた場所です。なので、暇な時や時間があるときは、常に森や海に連れて行ってもらってました。特に、一色海岸にはずっと通っていました。

①一色海岸

一色海岸は、森戸海岸線を超えたところにあります。神奈川県立近代美術館や葉山しおさい公園も隣にあり、休日は多くの観光客で賑わいます。真ん中に海の家がありますが、サザンビーチのように大規模な海の家ではありません。ゆったりとしている雰囲気で、少人数ながら、緩やかに楽しめる海の家です。
僕は、海岸に入る前に警察官の方に挨拶することが多いです。なぜ海岸に警察官??と思った人もいたかもわかりません。解説すると、実は一色海岸は葉山御用邸とも隣接しており、天皇陛下の別荘を守るために、警察官が駐在しているのです。挨拶の仕方としては、「お疲れ様です!」や「こんにちは!」などです。大体、御用邸の警備にあたっている警察官の方は非常に優しいので、にこやかに返してくれることが多いです。ていうか大体、葉山の人は優しいので、誰に挨拶してもにこやかに返してくれることが多いです。

一色海岸

②小磯の鼻

そして、一色海岸の左の方に行くと「小磯の鼻」と呼ばれている、でっぱっている地形の海岸が続きます。その隣に、小磯の防波堤(堤防)があります。この堤防は、なんと潮の流れによって、堤防に渡れるか渡れないかが決まってしまいます、!!なので、堤防で釣りしてたらうっかり渡れなくなってしまうことも、、、「小磯の鼻」での思い出は、小学生くらいの時にカサゴを掬うことができたことです。小磯の鼻は、ところどころ地面に穴が空いていて、その穴に海水とたくさんの魚がいます。小学生の頃の僕は、その穴を凝視しては、魚がいるかどうかを確認する作業を3-5時間くらいは、平気でこなしていました。ある日、今日も捕まえられないかーと嘆いていた時でした。左奥の穴に、魚の予感がしました。しかも、非常に大きいサイズ感です。僕は、真っ先にその穴に向かい、魚の後を追いました。
そして、持っていた棒を小さな穴に入れながら、出口の穴を網で塞ぎます。棒で、穴をかき混ぜると、、なんと勢いよく出口の穴から、大きなカサゴが飛び出してきました!!!それをすかさず、塞いでいたあみで、掬いGET!!!!!この瞬間は最高でした。おばあちゃんちに行って、カサゴを煮付けにして、美味しく食べました。この経験は、忘れられないです、「童心」を感じます。

小磯の鼻

③主馬寮公園

主馬寮公園は、一色海岸から帰る時によく立ち寄っていた公園です。僕が小学3年生くらいにできた、比較的新しい公園です。奥には、新築の住居が建ち並んでいて、右には逗子に抜ける道路があります。二つとは、しっかりと柵で区切られているので、ボールが越えることはありません。(一回だけ、とんでもない方向に飛ばしてしまい、道路にボールが入ったことがあります、、、😭)公園では、よく野球やサッカーをやっていました。父親を座らせてのピッチング練習や、友達とのサッカーゲームなど、公園中を縦横無尽に駆け巡っていました。今の脚力と体力は、主馬寮公園で、運動していたおかげかもしれません。

主馬寮公園

④おばあちゃんの家

主馬寮公園と隣り合わせの道路を駆け上がり、少し細かい路地に入り込み、さらに丘を下っていって、川に合流します。その川の合流地点から、さらに駆け上がれば、私の祖母の家があります。祖母の家では、数えきれないほどの思い出を過ごしてきました。特に、毎回の昼ごはんで祖母が出してくれる「蕎麦」が絶品です。(今でも祖母の家に行った時には、必ず食べています!!)あの喉越しと、絶妙な硬さ、あとはつゆのちょうどいい濃さ、全て最高です。そばの隣に置かれている天ぷらは、外はサクサク中は熱々で、たまりません。この蕎麦を食べて初めて「葉山に来た!!」という実感を感じます。
あとは、たまにおやつに「葉山コロッケ」を出してくれます。地域の肉屋さんが葉山コロッケを売ってくれていて、祖母はよく買っています。多分葉山に関わる人で、葉山コロッケが嫌いな人はいないと思います。(絵子ともこの話しました)

僕は、葉山がはっきり自分を産んでくれて、育ててくれた場所であると明言できます。僕の「優しく、穏やかな部分」は葉山が育ててくれました。葉山の人、食べ物、景色、雰囲気、全てが好きです。悩んだら必ず葉山に帰るようにしています。
今では、僕のかけがえのない人も葉山にいるので、葉山で過ごす時間を大切にしてきたいと思います。今年の夏も、葉山にたくさん行きます。

葉山

2.戸塚

僕が戸塚に引っ越した?のはちょうど幼稚園年中の時だと思います。親の仕事の都合で、戸塚の賃貸に住むことになったからです。住んでいたところは、戸塚駅から歩いて15分くらいの上倉田町という場所でした。駅から、家まで傾斜のある坂道を登らなければならなかったので、相当しんどかったです、、、。でも、その傾斜のある坂道からは、いつも富士山が見えるほど、立地としてはいい場所で、家からは街全体を見通すことができました。その、賃貸には中庭みたいな自然あふれる場所があって、小学生の時は、友達がいてもいなくてもその中庭みたいな場所で、永遠と遊んでいた記憶があります。しかも、中庭みたいな場所は、1人の子供には勿体無いくらい広くて、多くの生き物が生息していたので、僕にとっては、秘密基地のような場所でした。

①舞岡公園

僕の家の近くの傾斜のある道路をずっと、上に登り続けていきながら右へ左へ向かえば、舞岡公園という、横浜の中でも結構有名?な公園にたどり着きます。舞岡公園は本当に広くて、無限の可能性が広がっていました。特に、公園の奥にある日本庭園が僕のお気に入りスポットで、いっつもそこで駒とか羽つきとかやっていた記憶があります。正月には、餅つきのイベントも開催されていて、春夏秋冬遊べるのも魅力です。僕は、舞岡公園の入り口が一番好きです。何通りか入り口があるのですが、僕の家の近くからの公園の入り口が、まるで映画のオープニング映像のように壮大で、公園に吸い込まれていくような力を持っています。入り口の向かいには、広大に田んぼや畑が広がっています。

舞岡公園

②吉田町大日谷公園

僕の家から、舞岡公園に行く道を左に行くと吉田町大日谷公園に着きます。実は、戸塚に住んでいた時は、こんな長い名前覚えられるはずもなく、そもそも名前があることすらわからなかった公園です。でもこの公園、戸塚の中でも1番の高台にあって、景色が本当に綺麗なんです、!!!!もう絶景すぎて、息を呑んでしまうレベル。夕日×富士山×街並みの写真がこれです。

吉田町大日谷公園からの富士山と夕陽

で、ここなんですけど、よく地元の小学生の遊び場になっていたので、いつも帰り際に上の景色を見ていました。当時はそれが当たり前だったので、綺麗だったけどそこまで気にすることはなかったのですが、いざ戸塚を離れてみたら、もうすでに行きたい衝動に駆られるレベルの綺麗さです。

僕の友達の多くは、吉田町大日谷公園の近くのマンションの「モデラピークス」と「プライズヒル」に住んでいる人がすごく多かったので、よくお世話になりました。僕の親友もそこに住んでいました。親友の家には、たくさんのゲーム機と模型があったので、僕は胸を躍らせて毎日通っていました。思い出すだけでワクワクします。帰り際に見る夜景はもっと最高ですね。

③東戸塚小学校

東戸塚小学校は、僕が小学5年まで通った小学校です。東戸塚小学校での思い出は、思い出せばキリがありません。東戸塚小学校に通っていた頃が、最も「自分らしく」いることができていた頃だと思います。なぜ自分らしくいれたのかを問い直してみると、それぞれの瞬間を喜怒哀楽全て受け入れて全力で生きていたからかもしれません。特に印象に残っているエピソードを紹介します。

東戸塚小学校

◎落ちていたパン(ほこりつき)を食べて全員に驚愕される
僕は、小学生の頃から爆食BOYとしての名を馳せていたので、給食は基本的に全おかわりは当たり前、世界の食品ロスに大きく貢献していました。得意料理はチリコンカーンという料理で、バケツにいっぱい余ったチリコンカーンを全て飲み干してくらい得意でした。アイスのジャンケンには必ず参加し、負けたら泣くくらい本気で立ち向かっていました。また、パン系はクラスに嫌いな人やそんなに量が食べれない人が多数いたので、毎回10枚以上余っていました。僕は、子供の頃から、「たくさんの人が関わってくださって、ご飯を提供してくれているのに、なんで軽々と残すんだろう?」とずっと疑問に思っていて、これは良くないなーと思い、自分でなんとか解決したいと考えていました。おかわりの最高記録はパン14枚(+分け与えられる分2枚)で、これは日本中見ても誰も越せない記録かと思います。
そんな気持ちで、いつものようにパンをおかわりしようと思って、パンが置いてあるボックスに足を運ぶと、パンが5枚と床にパンが1枚丸ごとそのまま落ちてしまっていました。いつものように5枚は手にしたのですが、床に落ちてあるパンもそのまま拾って、自分の席に戻りました。その拾った瞬間は、先生は見ていなかったのですが、パンが落ちていること自体は覚えていたらしく、生徒全員に「あ、ここに落ちたパンがあったと思うんだけど、後で処理しようと思ってたんだけど、誰か知らない〜?」みたいなこと言ってたので、僕が「あ、今食べてます!」と答えました。その後のことはあんまり覚えていませんが、先生が駆け寄ってきて、埃のついたパンを没収された記憶はあります。この事件以降僕は全員から、「食べることが優先順位No.1の頭おかしい男の子」みたいな見られ方をして、話題もご飯の話がメインになり、なぜか知らないけど、僕が友達の家に行く時は毎回出してくれる、お菓子の量が相当多かった気がしますね。はい。お母さんたちにまで伝わっていたのかな。まあありがたく、全部平らげて、食器だけ返すんですけどね。
エピソードからもお分かりかと思うんですが、この時の僕は全く人の目を気にしていませんでした。「より自分らしくいるために自分らしくいた」ということです。で、もちろん色々なことをルールだったり約束で禁止したり、縛ったりすることも重要ではあると思うんですが、子供の時に上記のような経験をいかにたくさんしているかが、実は大学生や大人になった時に、少しでも自分らしくいることができる秘訣なのかなと思います。そういう意味では、先生や友達含め、東戸塚小時代に関わってくれたみんなに本当に感謝しています。また、東戸塚小学校自体、敷地が広くて、開放感あふれる場所でした。あれだけ大きな敷地で自由に行動させてもらった当時の大人の方々には改めて、感謝したいです。
そして、いつか東戸塚小のような、活気あふれる小学校に入る子供たちの支えになれるような、人間でありたいとはいつも思っているのです。実は、東戸塚小学校でのエピソードを10000字レポートで書くのは2回目になります。1回目は、僕の友達との思い出や青春の一場面も書いてあるのでぜひ読んでみてね。2022年、僕が初めて長谷部研に入った後の10000字レポートです。

3.新宿-市ヶ谷-

僕は小学5年の時に、新宿の市ヶ谷に引っ越しました。これもまた、父親の転部に伴う命令?みたいな感じで、オフィスから近いところに住むことになりました。僕は、前の東戸塚小並びに戸塚が大好きだったので、離れる時は本当に悲しかったです。送別会も企画してくれましたし、僕1人で思い出の場所を巡って、頭に焼き付けていました。そしてまたいつか大人になった時に戻ってくることを誓い出発しました。
新宿区の中でも、市ヶ谷駅近くに住んでいました。隣に大日本印刷のビルがあるという、小学生の僕からしてみると、もう本当に大都会の場所でした。初めての転校は怖かったですが、まあなんとかなるやろ精神で、乗り越えていきました。戸塚よりはギスギスした感じもありましたが、そういう奴は軽くいなして、僕は好きなように行動することで、なんとか周りにも認められ、仲良く過ごすことができました。新宿の中でも、今の僕を作っていると感じる場所があるのでぜひ紹介させてください。

①中町図書館

僕が新宿時代の中で、最も多くの時間を過ごしたのは中町図書館だと感じています。友達と遊んだりすることはありましたが、それ以外の日は、ほとんど中町図書館にいました。図書館で何をするのかというと、もちろん勉強とかもしていましたが、基本的には本を読み続けていました。一回の滞在平均時間は4-5時間くらいだったと記憶しています。13時に図書館に入ったら、18時までいた気がしました。
振り返ってみると、中学校も図書委員長をやっているくらい本が好きだったんだと思います。最終学年で、担任から学級委員のオファーを断り、図書委員長をやった記憶もあります。僕的な憧れは、司書さんでした。リーダーシップと落ち着き両方を兼ね備えた人になりたいと無意識に思っていたんだと思います。気付けば、3年間全て図書委員を務めていたと思います。
中町図書館での時間の過ごし方は、基本的に本を読みまくるという行動をひたすら続けることです。そのため、新宿を離れるときに読み終えた本の数は、おそらく中町図書館の一つの棚丸々くらいだったと記憶しています。この過ごし方が今の僕を作ってくれました。僕は、人よりも頭の中ですぐ言葉が出てくることが多いと感じています。言の葉が連なって、僕の頭の中を駆け巡っている感じがします。まさにこの感覚は、大量の本を読んでいく中で、様々な読者の、言葉の紡ぎ方や繋げ方を見て、感じてきたために身についたものであると感じています。でも、読んでいた本は自己啓発本やビジネスではありません。人の感性に訴えかける小説でした。人と人がどう関わって、何を感じ、どのように行動するのか。中町図書館に置いてある本は、フィクションでもノンフィクションでも、考えさせられる本ばかりだったと記憶しています。多分、中町図書館にはいきすぎて、司書の方に名前と顔を覚えられている気がします。今も元気にしているかな。

新宿区立中町図書館

②早稲田大学周辺

もう一つ紹介したいのが、早稲田大学周辺地域です。僕は、この場所で社会の厳しさ(資本主義)を知った気がします。僕は、転校してから間も無く、早稲田アカデミー早稲田校という塾に通い始めました。塾に通ったはいいものの、全くやる気が出ず、塾のメンツと毎日毎晩遊んでばかりでした。そのため成績は伸びるはずもなく、下降気味、僕自身にやる気がなかったので、こればっかりは仕方がないと思っていました。しかし、夏期講習になると、勉強で1日中塾にいることを強制されたため、嫌々ながら、たくさん勉強した記憶があります。立地が立地なので、他のクラス(私立進学組)メンバーは、名だたる受験校や近くの早稲田合格に向けて猛勉強していました。多分親から、「これで人生決まるよ〜」と伝えられていたのでしょう。僕は、小学生からよくそんな人生決めれるな〜と思っていたのですが、一方で彼らの努力には到底勝てるはずもないと思い、尊敬の眼差しで見守るだけでした。結果、彼らの多くが早稲田に行きました。今でも楽しそうに学生生活を謳歌しています。僕としては、秋冬からまた遊びモードに逆戻り。結局、中高一貫校には落ちて、地元の中学校に進学することになりました。
地元の中学校では、テニスを頑張っていました!テニスといっても皆さんが想像する黄色いボールではなくて、プニプニの白いボールを使って行う軟式テニスというものです。でも、やってみると面白くて、先輩も優しいものあって、のめり込んでいきました。担当の顧問の先生も優しく厳しい先生で、大当たり。僕は、少し努力して徐々に試合に出れるようになりました。大会にもたくさん出場した記憶があります。特に忘れないのが、2年の秋の時の新宿区立中学校大会です。場所は、早稲田中学校・高等学校。早稲田大学の直属の付属校で、大学のキャンパスの真隣にある中学校です。設備は、全て人工芝で、食堂も完備してありました。公立中学の僕からしてみれば、この設備にはびっくり。僕とペア(軟式は、ダブルスで試合することが多いです)この大会で、4回連続で勝ち、ベスト8まで勝ち進みました。あと一回勝てば、メダルは確定でした。僕は、なんとか結果を残したく、ここまでずっと練習してきたので、喉から手が出るほど欲しいメダルでした。
相手は、早稲田中学校のシードペアでした。倒すには格好の相手です。しかし、グラウンドは完全アウェー。もちろん両親も応援にこれるので、早稲田の応援には多くの人がネット越しで応援していました。早稲田の旗とかを持って応援している人もいて、威圧感がすごかったです。勝負は、僕たちの思い通り、ロブ合戦に持ち込み、相手にまともにストレートを打たせませんでした。ラスト1ポイント。彼らの球が、僕の頭上を越え、アウト。試合終了。僕たちの勝ちです。
人生で、努力が報われることがあまりなかった僕にとって、この勝ちは本当に嬉しく、多くの人に感謝をしました。早稲田という場所は、努力した人の集まりな気がして、僕はすごく気が引けていたのですが、大会でメダルを手にした後は、なぜか歩くのが心地よかったのを覚えています。一方で、このエピソードを通して、ここにいる人たちは並々ならぬ努力をして、この場所を歩いているということを実感しましたし、僕自身は人生で重要な「成長」の一要素が掴めた気がしました。それは、ひたすら努力し続けること、愚直にやり続けること、それが軟式テニスを通して学べて、本当に良かったです。振り返ってみると、こういう青春も悪くないなと思うようになりました。(もう早稲田はお腹いっぱいだったので、大学選択の時は無意識に避けていました笑笑)

早稲田中学・高等学校

4.町田

新宿の中学を卒業した後、僕は東京都立町田高等学校へ入学することになりました。東京の真ん中から西への移動でしたが、大都会に飽き飽きしていたので、気持ち的にはすごく楽でした。また、全く知らない人たちとの関わりを作ることに少し複雑な気持ちもありましたが、気持ちを切り替えて頑張ることにしました。
結論から言うと、町田は僕の学生生活の中で、「もっとも青春を感じ、楽しませてくれた場所」だと感じています。今日はそんな町田の素敵な場所を3つ紹介します。

①町田市民球場

町田市民球場は、駅から少し離れた高台にあります。球場としては、そこまで大きくはないですが、市民センターやテニスコートがあるなど、町田市民にとっては、公共施設として、重宝されている場所です。また球場には、外周にトラックが設置されているので、町田のランナーには高評価です。僕が最初にこの球場に訪れたのはテニス部での朝練がきっかけでした。朝練では、球場を5周走ってから球を打てると言われていたので、きつい夏の中も、寒い冬の日も、球場をぐるぐる走っていました。そのうち、僕とその友達は体育祭で1500mや選抜リレーに選ばれた際にも、練習場として球場を使うようになりました。放課後毎回、球場に集まって、くだらない話をしながら、陸上の練習をする。今思うと、あのかけがえのない瞬間が、青春そのものだったと思います。
さらに、町田高校では、毎年合唱祭があるのですが、その練習をなんと球場の客席で行うのです、!これぞ青春。クラスごとに球場に集まって、指揮者を前にしてみんなで歌います。ここでの練習はクラスのまとまりや仲の良さが問われます。沈みゆく夕日を背に歌う「虹」は、一生忘れられません。

町田市民球場

②芹が谷公園

町田にある大きな公園といえば、芹が谷公園です。小田急線で新百合ヶ丘→町田間でも、進行方向左側に見える山が芹が谷公園の一部です。芹が谷公園の特徴は、なんといっても広いことです。豊かな緑と水の中に、大きな彫刻があります。
僕たち、町田高校では、毎学期最後に球技大会がありました。球技大会では、バレー/バスケ/サッカーの中から、好きな種目を選んで参加します。僕は、もちろんサッカー。できないなりにサッカー部のみんなに教えてもらう際、よく芹が谷公園を使っていました。「今日芹が谷集合な!」その声で、全員が19時に芹が谷に集まります。そして大きなグラウンドでひたすらサッカーをしていました。二つの自転車を置いてゴールとして、その間に入ったら得点。シンプルなゲームですが、22時くらいまで熱中していました。僕のクラスは、運動系は本気を出すタイプのクラスだったので、練習の都度仲良くなっていきました。
卒業の際にも、最後公園に集まっていました。公園で、鬼ごっこやかくれんぼをして、別れを惜しみました。公園の噴水から流れる水のように、みんな心の中では、大量の涙を流していたと思います。
芹が谷公園の魅力を語ります。最近大きな滑り台ができました。巨大な滑り台で、子供から大人まで幅広い人が楽しんでいます。春になると桜が満開になり、絶景を見ることができます。生き物も多様で、季節ごとに様々な生き物が、公園の豊かな自然を享受しています。夏になると、水辺エリアで水遊びをする子どもたちが増えます。今シーズンですね。ぜひ訪れてみてください。

芹が谷公園

③町田商店 本店

最後に紹介するのは、ラーメン屋です。町田商店 本店。僕が一番通ったラーメンと言っても過言ではないラーメン屋。駅を左に出て、まっすぐ進むと見えてきます。高校時代は、「気づいたらここにいる」感覚です。僕は、町田で高校を過ごせて本当に良かったと感じています。それは、たくさんの「おいしいや楽しい」に出会えてきたからです。今は、資本主義のもと、SNSなどにアップされているおしゃれなものや美味しそうなものがたくさん出てきます。もちろん、それらで満足できることもあるのですが、僕は安くても人の温もりとか、由来とか、歴史とか、雰囲気を全面に感じられる場所も好きです。(の方が好きです。)これを僕は「手触り感」と呼んでいます。町田商店 本店には圧倒的な、「手触り感」があります。入った時に、香る湯気とラーメンの匂い。従業員の方が、太陽を二乗したような明るさで接客してくれます。硬め濃いめ多めで注文。一口目を啜ると「これだ、、、」と地元に帰ってきた感覚がするのです。そこで交わした会話は大体はしょうもないものです。今となっては、何も覚えていませんが、確かにそこには、「浪漫と記憶」が刻まれています。

ラーメン町田商店 本店

皆さんは、胸を張って「故郷」と言える場所はありますか。僕は、幸せなことにたくさんあります。人に恵まれた人生でした。これからも故郷と呼べる場所はたくさん僕の胸の中に刻まれることでしょう。次はどんな、魅力に出逢えるか楽しみです。またね。

2024/8/1

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