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「青春の軌跡、君に恋した30秒」

はじめに

「青春の軌跡、君に恋した30秒」を手に取ってくださり
ありがとうございます。
はじめまして、松浦嵩と申します
神奈川県逗子市葉山町出身、19歳です。
長谷部葉子研究会・離島プロジェクトに所属しています。
今回、今日に至るまでいろんなことをかけがえのない経験をさせていただいた僕は
エッセイと小説の融合という形で、まとめ上げることに挑戦することにしました。
僕は、表向きの経歴は輝いていたとしてもその裏では他者から多くの素敵な、
肉肉しい、涙で、まっすぐな「本音」をいただきました。
最近は加工や編集などで自分の顔が綺麗に加工されますが、実際はそんなはずはないでしょう。もっと醜い顔をしております。
そんなふうに、世に出回っているものと素顔、本当の気持ちとは
実際は大きな乖離があります。建前ではなく本音で語り合いたいのです。
そんな「本音」の一つ一つをもう一度振り返り、また自分に釘を打つように
刻み込む、そんな気概で言葉を紡いでいきたいと思います。
寂しさ予防の友情や建前だらけの関係が流行る今だからこそ、
唯一の心の拠り所も少ない今だからこそ、自分に嘘をつかず書き記します。
今、リアルタイムで青春を全うしている「軌跡」です。
ご自分のペースで結構です。どうか最後までお見届けください。

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第一章:優基挑協 

松浦へ
1・2・4・5年で一緒だったね
あまり活動する時は、いっしょになれなかったけど
松浦がクラスにいるとクラスが暖かくなってとても楽しかったよ!
5年は前期しかいっしょにいられないね!
東京に行っても東戸塚小のみんなのこと忘れないで元気にしていてね。
また会えるといいね。  山懸 風香


小学5年生の夏に、僕は転校を経験した。
父親から6月ごろに「東京に行く、家族全員で」と言われた時は
ソファに顔を埋めて泣いていた。
それに続いて、「転校するからしゅうは学校が変わる。」
申し訳なさそうに言う父も、直接言うまでには「悩み悩んでいたんだろうなあ」と
自分で推測できたのは高校生になってからだった。
ふと妹を見るとキョトンとした顔である。
「別にお前はいいよな、まだ小1で転校しても友達たくさんできるだろ。
俺は、小5で転校だぞ。終わりだ。」
と言いたいところだったが、
母親が蒲焼さん太郎をくれたので言うのをためらった気がする。
明くる日、優しい母親が暑い校舎に来てくれて、
転校する旨を担任の先生(まりな先生)に伝えてくれた。
これが僕の初めての、環境の変化だった。
環境の変化は人を変える。
でもそんな言葉で片付けてはいけないほど、辛い別れだった。
みんなで昼休み、廊下で嵐の「Love  So sweet」を踊って汗がダラダラになり
その後の国語の時間はもちろん睡眠時間だった。
クラス対抗のドッチボールでは男子全員でまりな先生を守った。
みんなまりな先生が大好きだったから。尊敬していたから。
こんな些細な日常が大好きで、一生続くかと思ってた。
なんなら人生が今日で終わってもいいとさえ思った。
だから、「松浦を送り出す会」の当日は辛くて仕方なかった。
当日の目標は「泣かないこと」
漢字テストの目標点はいつも余裕で超えていたけど
このテストだけは、赤点だった。
「松浦を送り出す会」でもらった二つの宝物がある。
一つは、思い出の写真とクラスのみんなからのメッセージ集である。
しかも全員顔写真付きの。
その項目は
名前・誕生日・思い出・相手(松浦)へのメッセージへの4つ。
大学生になって読み返してみると
人ってこの4つさえあれば、10年経っても忘れないんだなと。
この4つで全てが蘇るのだなと感じた。
メッセージ集の一番最初のページに大きな文字で「優基挑協」と書かれている。
確か、クラス目標だった気がする。
優:人に優しく相手を思いやろう。
基:礼儀(挨拶、身だしなみ)や時間、宿題など基本的なことはきちんとやろう。
挑:失敗してもいいからチャレンジしてみよう。
協:みんなと協力しよう。時には助け合おう。
これは先生と生徒で全員で意見を出し合って決めた。
「なんだ、これ長谷部研で俺らがいつもやってることじゃん」
と思うのはおよそ10年後の話である。
私はこのメッセージ集を墓場に持っていくつもりだ。一緒に埋めてほしい。
もう一つは、山懸風香からもらった「松浦へ」と言うタイトルの手紙である。
この手紙を読んで初めて、「自分が組織に貢献できること」を実感から学んだ。
一人でもこのクラス、つまりかけがえのない組織からいなくなればそれは
全く異なった組織となること。その影響は計り知れないこと。
そして、自分以外の誰かが幸せになることは結局は自分も幸せになること。
って瀬戸内寂聴が言ってたっけ。
そして、常に自分の気持ちを伝えたいあなたがいること。
今は、どこにいるかわからないけど元気でいてくれたら嬉しいです。
本音で伝えたい。

「また会えるといいね」

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健太郎は、転校先の学校でもうまく馴染めるようなキャラだった。
だからクラスメイトから遊びに誘われるのに時間はかからなかった。
だけど、東京は遊び方が地元と違った。
いつも有名人が描かれている青白い長方形の紙が必要だった。
それはそれは刺激的で楽しいことばかりだったが
彼はなぜか違和感を感じていた。
また今日もお母さんに「夜ご飯はいらない」と伝えなければならない。
彼の携帯が、緑色に染まっていた。


第二章:だだこねても、貴方の子でいたいから

「ただいま」の返しがあって
カレーライスが帰りを待って
貴方は優しく言った
「手洗ってうがいをしな」って
僕は食卓に座って
貴方が来るのを待ってる
一人の「いただきます」は
味気ないから


僕の母親は、多分世界で一番優しい。
だからその優しさを享受できる時間が幸せだった。
時は、中2の頃に遡る。
多分反抗期だった。
何かの弾みに激昂して、母親が作ってくれた料理を
全てソファにぶち撒けた。
その時母親は数秒間驚愕した後、何も言わずに片付けを始め
「明日もご飯いるよね?」とだけ言って台所に消えていった。
僕は悲しくなって、自分の部屋で一晩中泣いていたのはいい思い出だ。
中学の頃、定期テストがインフルエンザで受けられなくなった。
その時母親が中学校に言って、頭を下げ僕が後日追試を受けられるように
先生方に交渉してくれた。僕が通ってた塾でテキストを忘れた時も、
わざわざ30分くらいかけて届けてくれた。
それも一回だけでなくて二、三回ある。
そんな母親だった。
父親はまるで真反対の人間だった。
僕も多くのことを要求してきた。テストは100点ではないと許されない。
責任感が人一倍強く、完璧主義。
だから、頑張りすぎて崩壊してしまった。
その影響で母親が入院。一時期は、集中治療室に行くまで重症化した。
「私のことは心配しないでいいから、部活と勉強に集中して」
集中できるわけがなかった。
正直、父親の姿を見て「憎らしい」と思ったこともある。
ただ、「可哀想だ」と言う気持ちの方が強い。
どうしてこうなってしまったんだろう。誰が悪さをしているんだろう。
原因は明らかだった。職場での精神的ストレス。会社での働き方。
僕は、素直に助けたいと思った。でも助ける手段はなかった。
だからとにかく勉強するしかなかった。
勉強して、父親のように苦しむ大人を一人でも減らすことを
人生の目標にしようと思った。それが今のワーケーションの研究に繋がる。

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東京の中心部はコンクリートに包まれていて昼間は限りなく暑い。
冷房が携帯電話と同等の価値を持つ季節が今年もやってきた。
14歳の咲は、中学校の帰りに毎日近所のお寺に通っていた。
暑い中汗を流し続ける運動部も、部屋にこもって練習地獄の文化部も
性に合わなかった。だから放課後は、遊びに誘われない限り暇だった。
お寺にはいつも朗らかな立ち振る舞いで咲を迎え入れてくれる和尚さんがいた。
和尚さんは決まって、お茶と日光の温泉まんじゅうをくれた。
咲にとってはここが「もう一つの家」だった。
和尚さんは社会の仕組みからお金のことまで隅々教えてくれた。
学校の勉強よりも、大切なものがここで学べる気がした。
たまに、健太郎という男の子がお寺に顔を出すことがあった。
彼は、最近この近くに引っ越してきたという。
「俺の昔の学校ではさ、グリンピースってのが流行っててさ。一緒にやろうよ」
「ぐーから、ぐーから、」
「あーそうそう、パーはパーから、ね。それで同じになったら"どん"っていうの、"どん"を早く言えた人の勝ち」
この要領で、いろんな遊びを教えてもらった。彼は愛嬌もよくて
話が面白いので、転校先の学校で友達がすぐできるのも納得だった。
1日の中で最も辛い時間は、お寺から家に帰る時だ。
今日は帰ったらお父さんと正面から向き合ってみよう。
お寺の中心に位置する時計を見ると、もうすでに21:00をまわっていた。

第三章:図書室から、眺める君の姿

しゅうが総理大臣になったら
私は、お医者さんになる。
総理大臣って激務だと思うから
たくさん看病してあげる。
卒業しても、頑張ってね。
辛くなったらここに戻ってきていいから。
テレビにしゅうが出る日を楽しみにしてるよ

実は、中学を卒業する時の将来の夢が総理大臣になることだった。
これでどれだけの人に笑われてきたのだろうか。
しょうがない、もはや笑われるのも慣れた。
でも当時は本気でなりたかったんだからしょうがない笑笑
誰も止める大人がいなかったんだ。
大体、呆れられるか「じゃあ勉強だな」と言ってすぐ勉強に話を移す。
そうそう、昔から僕は大口を叩いては何もできない人間だった。
今も全く変わっていないけど。
でも、「夢」を見るということは素敵なことのように思う。
人生の可能性・生きているという実感をまざまざと感じられる瞬間だ。
もちろん現実は目の前にあって、たくさん否定されることもあったが
友人と「夢」を共有するあの時間は、まるで金曜日の夜のようだった。
よく塾の帰りに、友人と駅の屋上で「夢」を語り合っていた。
友人は、いつも「お医者さんになりたい」と言っていた。
コードブルーという山Pと新垣結衣主演の映画を見て、触発された。
「いつかお医者さんになって、困っている人を助けたい」と。
僕たちが語り合っていた場所は
それはそれは景色のいい場所で、東京と神奈川を一望できる場所だった。
塾の最後の時間が21:00だったから、
親にはいつも23:00には帰ってきなさいと言われていた。
「帰ろうか」と言って時計を見ると
もうすでに26:00を超えていることなんてザラだった。
正直、当時は勉強なんて興味なかった。したくもなかった。
だから逃げるように夢を語った。

もう一人だけ、「夢」を真剣に聞いてくれる人がいた。
学校の図書館の司書さんだった。
僕は、中学校2年間図書委員だったから昼休みは大体図書室にいた。
もちろんボールを使って外で遊んだり汗を流して懸命に走ったりする遊びも
大好きだった。だけど僕はそれを図書館の窓から眺めて司書さんと話す時間も
最高に好きだった。
別に、司書さんが可愛いからとかそういう理由じゃない(汗)
司書さんの話し方や話す姿勢が、とても愛嬌があって生徒思いで
辛い時は常に寄り添ってくれた。
一回だけ、金曜日に図書館の本を借りずに無断で家に持って行った時があった。
図書委員として絶対にやってはいけないことだった。
次の月曜日、無事に僕は特別指導室にいた。
あれ以上怒られた日を僕はあまり知らない。
制服の襟が汗と涙で、まるで雨に濡れたかのようだった。
この時の司書さんは僕に本音だった。本気だった。
僕に期待していたからだ。多分、僕のことが好きだったからだ。
だから怒った。物凄い勢いで怒った。
怒るということは決して悪いことではなくて
相手に期待しているからこそ、相手の将来・人間性を深く考えているからこそ
出てくる感情表現だとこの時に初めて気づいた。
こういうところも含めて司書さんが大好きだった。
子供の目線に立って楽しい時は盛大に楽しく辛い時には寄り添い、
時には怒り、喜怒哀楽を共に共有していた。
こんな大人になりたいと思った。
今の長谷部研のお姉さん・お兄さんたちに僕はこの姿を照らし合わせてしまう。
中高生コラボWSなどで何度この姿を見ただろうか。物凄い人だ。この人達は。
いつも陰ながら、尊敬しています。
ところで、この司書さんの将来の夢を聞くのを忘れてしまった。
今はどこで何をしているのかわからない。
今度、会ったら聞いてみよう。
なぜか知らないけど、どこかで会える気がするんだ。根拠はない。
根拠なんてなくていいと思う。僕の夢にだって根拠なんかないから。

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6月の梅雨の時期。気持ちが一段階、いや二段階下がってしまうこの時期。
給食で出たわかめご飯を残してしまったのを心残りにしつつも
私はいつも通り、近所のお寺にお世話になっていた。
和尚さんに「咲は将来、何になりたいんだ」と聞かれた。
「うーん、普通に奥さんだと思います」
咲は将来、普通の奥さんになることを目論んでいた。
特に、将来の夢もなかったし、普通に勉強して普通に働いて、普通に結婚して
普通の奥さんになるんだろうなぁと勝手に想像していた。
だから周りの友達が夢を語っているのを聞くと驚く。
”周りの友達”の一人、健太郎はいつも日が暮れてからお寺に顔を出す。
今日も多くの戦利品を携えてやってきた。
「見て!これ全部ゲーセンでゲットしてきた!」
と言ってマーブルチョコやカービィのぬいぐるみを腕に抱えている。
カービィのぬいぐるみは素直に欲しかったが、その提案はすぐに却下された。
こいつは、生意気なことに勉強もしてないくせに
「俺、パイロットになりたいんすよね」
沖縄に旅行に行った時、空港にいたパイロットに
写真を撮ってもらってから一目惚れらしい。
確かに、彼がパイロットになり飛行機を操縦している姿は想像できなくもない。
和「ケンはどうしてパイロットになりたいんだ?」
「え、だってカッコよくないっすか?お金もたくさんもらえるし」
和「もう少しまともな理由言えよ(苦笑)人の笑顔を見たい、とかさ」
「確かに、そうですけどー(笑)」
これが彼の本音だった。ここに嘘はない。
ちょっと健太郎がかっこよく見えた。
私は、聞いているだけでもはや清々しかった。
そうか、私も少しは自己中になってみようかな。
と思い、少し考えてみたが良い代替案は浮かばなかった。
雨足が強まっていたので、和尚さんから傘を借りて
帰路に着くことにした。これは直でお風呂コースだな。
そう悟ったと同時に、北の方角の空が激しく怒号を上げていた。

第四章:いつもアクエリアスが足りない

「お、松浦だ!やっほー!」
「金にならなそうね」
「無駄な足掻きはやめな」
みんな言った
おっしゃる意味はわかるけど

僕が全身全霊で取り組んでいたものの一つにテニスがあった。
このスポーツは持久力が物を言う。真夏の炎天下で試合などをしてしまえば
もう終わりである。まるで自分が焼き肉の”肉”になっているような感覚になる。
テニスで伝えたいエピソードが二つほどある。
僕は、日本の中で汗かきグランプリをしたら入賞するのではないかと思えるくらい汗をかく。そのためいつも2Lの冷えたアクエリアスを持ち込んでいたのだが
大体1時間くらいで水筒は空になる。
水筒が自動で補給されるシステムがあればよかったのだが、そんなものはないので
自分で汲みに行くしかない。
練習で使用しているグラウンドから冷水機まではおよそ100m。
この100mは世界のどの100mよりも長い100mである。
冷水機の近くには、体育館があってキラキラしたバスケ部が
その辺りを陣取っている。
僕とは無縁の異世界が広がっているのだ。
ただ、水を汲みに行くと毎回声を掛けてくれるバスケ部女の子がいた。
その女の子がいうセリフはいつも決まっている。
「お、松浦だ!やっほー!」
正直、この声を聞くために冷水機に行ったこともあった。
この声と、冷たい水で僕の体は80パーまでエネルギーが補給される。
この8文字は途轍もないパワーを持っていたんだと思う。
極め付けは「やっほー!」だった。
当時、「やっほー」という言葉の意味を調べてみたことがある。
辞書には『登山者が自分の居場所を知らせる合図などに発する声。
また、うれしいときなどに発する歓声。』と書かれている。
この時、言葉が人に与える力の大きさを知った。
言葉は人を救う。助けることができる。パワーを与えることができる。
時には、人を殺してしまうことだってある。
中学2年にして、言葉の魔力に気づいた。
長谷部研の先輩方は言葉の魔力に気づいている。
言葉が持つ意味の大きさを知っている。
だから、滞在相手やゲストの方々への言葉選びには細心の注意を払う。
個人プレゼンのFBとってみても、それは明らかだ。

僕は、テニスに関しての上手さは中の上くらいだった。
まあまあ頑張っていたと思う。
僕のプレースタイルは「シコラー」
シコラーとは粘って粘って、ロングボールを使って相手のミスを誘い、
得点するプレースタイル。
僕には、納豆のような粘り強さがあったんだと思う。
「これ追いつきそうにないな」と思うボールが来ても
「しんどい・やめたい」と思う時間帯でも決して足を止めることがなかった。
と言うより、できなかった。
なぜか?
これがプレースタイルだから。僕の生き様だからだ。
僕の生き様を簡単に壊すわけにはいかない。
正々堂々戦って、負けるなら全然良い。
自ら諦めて、負けることほど悔しいものはなかった。
自分には負けたくなかった。
中学の引退試合は、早稲田のライバルペアに負けてしまい5位。
それでも、見にきてくれたお母さんの笑顔を見れただけで
「テニス続けててよかった」と思えたから、大満足だ。
フィールドワーク先での関係性構築には一定の粘り強さが必要になる。
何かを成し遂げるには決して諦めない、譲らない精神力も必要だ。
来学期は、もっと自分のプレースタイルを出していきたい。
自分のプレースタイルで失敗しても
笑ってくれる誰かがいてくれればそれで良い。
「やっほー!Chillボーイ!」

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「今日はあんまりスライダーが入らなくてさ」
健太郎は野球部だった。子供の頃から父親と公園でキャッチボールをしていた。
キャッチボールに留まれば良かったのだが、木製バットや自動球出し機なんて物を買ってしまったので、野球にズブズブハマっていた。気づけば、中学も野球部。
最初は先輩とうまく意思疎通ができなくて、辞めようかと迷ったが
試合などで活躍するうちに目につけられて、次第に馴染めてきた。
ポジションはピッチャー。試合の行方を左右する大切な役目だ。
ただ、スタミナはなかったので主に中継ぎで使われることが多かった。
ピッチャーは打者との戦いというより自分との戦いだ。
自分が投げたいコースに投げたい球を投げることができるか。
その球を打たれたら、それはバッターが一枚上手という事。
こういう風に割り切っていると、精神的にも楽だ。
珍しく今日は試合で打たれたので、健太郎はお寺で凹んでいた。
「いつも暇だな、お前は」
「別に、あんたみたいに部活やってないからーしょうがないでしょー」
スイカを齧る咲は、今日はいつもと何かが違った。
好きな子でもできたのだろうか。やけに垢抜けた気がする。
健太郎は努力家だった。
「明日から、筋トレとスクワット30本追加しよ!!」
夏のまだ日が沈んで間もない空に向かって独り言を叫んだ。
下半身の軸がぶれているから球のリリースがブレるんだ。
咲が何か言いたげにスイカの種を捨てに行ったのを健太郎は見逃さなかった。

第五章:麦わら帽子、被っていい?

Thank you very much everyone and for your kindness in the United States.
I will go there again and I would appreciate your favor at that time.
次は麦わら帽子とサングラスを片手に新婚旅行でLAXへ

シンガポール航空のCAさんは驚くほど美しく、
「お肉の方ください。」
「わかりました、お飲み物はいかが致しましょう?」
会話をしているだけで目のやり場に困るほどであった。
僕は高校2年の頃初めての海外であるアメリカのサンディエゴに滞在した経験がある。自分の知らない世界に赴くことは好奇心半分・恐怖心半分で
成田を出発する前の夜は、うまく眠れなかった記憶がある。
持ち物で、帽子と書いてあったので僕は
大きなつばの麦わら帽子を持っていくことにした。
半年前くらいに、遠足に行くからと友達と町田のルミネで衝動買いしたものだ。
また、少年の勘でアメリカ西海岸は日差しが強いだろうという憶測を立て、
かさばるというデメリットを強行突破し、持っていくという決断をした。
まず、同じ高校の友人に「お前めっちゃ似合ってるじゃん」
「ブラジルにでもいくの?ww」「サングラスがあれば完璧だね」と言われた。
友人の麦わら帽子への評価は上々だった。
驚いたのは、現地のアメリカ人の反応だった。
英語で何言っているのか理解するのは当時の僕にとって少し難しかったが、
「Big hat !」「it's a nice hat!」とかは言われた気がする。
アメリカ人にも「日本の麦わら帽子ボーイ」として認識されていたのだと思う。
この時に、悟った。これが”個性”ってやつか。と。
松浦嵩=麦わら帽子を被った、生意気な男の子というイメージ。
高校の友人はもちろん、アメリカ人も同じイメージを持ってくれてとっても嬉しかった。個性って人それぞれ異なっていて、それぞれが輝いていると思う。
今回は、同じ文化だけでなくアメリカという異文化でも”MUGIWARA BOY"が
浸透する瞬間を見届けることができた。異文化理解は
独特の個性や考え方を発信する方と、
それを受け入れて理解する方の両方が揃って初めて実現すると感じた。
まさに、口永良部島で関係性構築を進めていくプロセスに似通っている。
長谷部研の学生も、いろんな個性の持ち主だ。
それぞれが輝いていて、それぞれがかけがえのない大切な個性だ。
僕は、このまま"Chill Boy"を貫き通して行こうと思う。
アメリカを離れる時、心の中で決めた。
今度は新婚旅行でここに来ようと。
その時は、大きなつばの麦わら帽子をお互いかぶって行こうと。
残念ながら、今の所は実現は難しそうだ。

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和尚さんが出張というので、お寺は咲以外誰もいなかった。
ホオジロが蜜柑の木の上に留まって、何かを企んでいる様子が伺えた。
しばらくしていると、健太郎が泥だらけになって帰ってきた。
これはスライディングしたんだな。咲は悟った。
スパイクを脱いで、一目散に水を浴びようとする健太郎はまるで
トビウオのようだった。私も、加勢してホースで彼に水をかけてやった。
「ちょ、おまふざけんなよ!」「めちゃおもろい笑笑」
こんなことをしているうちにあっという間に19:00を過ぎた。
和尚さんがいないので、久しぶりに二人だけで話す時間があった。
もうかれこれ、彼がこっちに引っ越してきて2年の付き合いだから
大体彼のことはわかっているつもりだった。
だけど、人っていうものは面白くて、決して決まった言葉や数字では表せない
”人間性”というものがある。
唐揚げにレモンではなくて、醤油をかける彼だから、他の人と少しずれている。
いや、「ずれている」なんて言ってはいけない。これは彼の個性だ。
今日は、唐揚げがどうしても食べたい気分だったから、まんじゅうの代わりに
スーパーで若鶏の唐揚げを買ってきた。
彼が、泥だらけの体を洗い終わったら
後で縁側で食べるつもりだ。
あ、醤油をつけてもらうのを忘れた。

第六章:本音として

それもまた、人生

この言葉は高校時代の恩師の口癖である。
数学の先生であったものの、授業の大半は人生の哲学や受験の
モチベーションを上げるようの話ばかりであった。だから好きだった。
19年間生きてきた。予測不可能なことしかなかった。
今まで人生で計画通りに進んだことが、何回あっただろうか?
この蔓延病は誰が予測しただろうか?
予期できないことだらけだった。
その都度家族や仲間と一緒になって喜怒哀楽を共にした。本音を言い合った。
心に残った言葉はごくわずかだ。だけどその言葉・思い出は今の僕を支えている。
思い通りにいかなくたって、それもまた人生である。
思い通りにいったって、それもまた人生なのだ。
転校をする運命だった。それもまた人生。
インフルになって期末試験を受けれなかった。それもまた人生。
総理大臣にはなれないかもしれない。それもまた人生。
ライバルに負けた。それもまた人生。
麦わら帽子は、日本に帰国したあとボロボロになって廃棄せざるを得なくなった。
それもまた、人生。
みんな、この予測不可能な時代に生きているんだ。
そんな時代だからこそ、信じられるもの・場所が必要だ。
それは、本音だ。
本音を携えて、街に出かけよう。
未来は案外、悪くないはずだ。

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健太郎が愛媛へ引っ越しをするという知らせを聞いたのは
桜が半開きの3月のことだった。
それは予備校帰りに和尚さんに偶然出会い、少し会話をした時のことだ。
中学校卒業後、父親の転勤の影響で愛媛の高校に行くという。
咲は、高校2年でそろそろ大学受験の勉強もしなければと思っていたから
最近、お寺に足を運ぶ機会も少なくなっていた。
「嘘だ。信じられない。」
どうして、こんな気持ちになったのだろう。
自分でも信じられなかった。
その知らせを聞いてから数日は、まともに勉強も手付かずで
学校から出されている課題も思うように進まなかった。
健太郎が最後に学校に行くのは、3/24の中学の卒業式だとは知っていた。
会えるとしたら、その後だった。

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いつものように、3/24の17:00頃。
咲はお寺でお茶と日光の温泉まんじゅうを嗜んでいた。
正直、心臓は1秒に3回も脈を打っていた。
「来た」
いつも通り、右のポケットに手を突っ込んだまま彼は来た。
「俺、実は引っ越すんだよね。今日で最後になると思って。
一応、挨拶だけでもしようかなって」
制服のボタンが何個も取れていたので、少し悔しかったが
来てくれたのは素直に嬉しかった。
「どうして、もっと早く伝えてくれなかったの」
「引越しの準備とかで色々忙しくてさ」
この時に、もっと前からLINEでも交換しておけばよかったと後悔した。
「一応、これ」
彼が差し出したのは、私が欲しかったカービィのぬいぐるみ。
今更、いらないよ。
「ありがとう」
カービィのぬいぐるみの裏にセロハンテープで手紙が貼り付けてあった。
「それは後で読んでね。今までありがとう。
お世話になりました。また、どこかで会えたらいいね」
「ありがとう、またね」
泣きそうだった。いや、泣いていた。
彼は、お寺とは反対方向に駆け出そうとしている。
まだ、伝えていないことが私にはある。それは何だ。
「ちょっと、待っ」
”て”が涙が喉に詰まって、咳き込んで言えなかった。
だめだ。顔が涙で埋め尽くされて、まともに会話ができないかもしれない。
けれども彼は振り向いた。そして、確かに咲の方向へ歩みを進めてきた。
その間、およそ30秒。貨物列車がほど近い駅を通過する音が聞こえる。
「どうした?」
「あのね、実は」



それは咲の「本音」だった。





                               (11000字)
72107251 
総合政策学部2年
離島プロジェクト所属

松浦 嵩


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