出版します! 本に込めた初の試みの話。
突然ながら、本を出すことにした。タイトルは『取り戻す旅』。そう、このnoteで書いていた同名の旅記事を加筆修正し一冊にまとめた本だ。
サイズは文庫サイズ、240ページと少々ボリューミーだけれど、noteで使用していた写真もふんだんに使い、長文を読みきる悦びを味わってもらえるよう1ページあたりの文字量を調整。なにより、長年僕の仕事に寄り添ってくれているブックデザイナーの堀口努さんに文字組みを丁寧に詰めてもらっているので、noteで読むのとはまた違った、心地よい読書体験をしてもらえるかと思う。
そして実はこの一冊に僕はとても重要な仕掛けをセットした。そのことを伝えるべく、noteを書いている。
◉きっかけ
2015年からぼちぼちとはじめたこのnoteだけれど、記事の数もすでに400本を超えて、貯まるばかりの原稿をそろそろ整理せねばなと思っていたところに、コロナ禍に始めたRe:Schoolというオンラインコミュニティのメンバーと文学フリマ東京に出ることが決まった。つまり、そこにむけて一冊つくってみるか、というのが今回の書籍化の直接的なきっかけだ。
しかし逆に言えば、それまで書籍化することに踏み切れないままでいたのは、既存の出版ビジネスと、僕の理想とする出版とのあいだに横たわる差異や違和感の丸太が、ひょいと飛び越えるには随分と大きすぎたからだった。
編集者として、これまで多くの出版社にお世話になりながら様々なタイプの書籍に携わってきた僕だけれど、今回は敢えて、自分で出版レーベルを立ち上げ、そこから出版することにした。当面は、自分の本を出すためだけの出版レーベルとしか考えていない。その理由を一言で表現するならば、「実験の場だから」。では、その実験とはなんなのか。
◉出版はギフトなのか
唐突だが、あなたは以下の僕の言葉をどう受け止めてくれるだろうか。
「出版は社会へのギフトだ。」
きっと、この一言を、とても利他的で素敵だと感じてくれる人は多いと思う。けれどこの言葉が、編集者として、ときには著者として、長く出版業界でしごとをしてきた僕の悲痛な叫びだとしたらどうだろう。
出版は社会へのギフト。この言葉を素直に受け止めてもらうためには、それを支える社会の醸成が必要だと僕はずっと思い続けている。そのために小さなチャレンジを積み重ねてもきたという自負もある。それこそ僕はいまこのあたらしい一冊を社会へのギフトだという思いで出版せんとしているけれど、しかしこれが真にギフトたり得るかどうかはわからない。
ギフトは贈る側よりも、贈られた側の思いで決まる。「よかれ」が往々にして「よくない」ように、ギフトがギフトたり得るかは、受け取るほうの気持ちに依る。だから僕の本がギフトであるかどうかは、あなた次第。それを僕はコントロールできないし、もちろんコントロールしようなんて思わない。けれど、もしあなたが今回出版する一冊を「ギフト」だと感じてくれたなら、その気持ちを伝える術を僕は巻末にセットした。その仕掛けについて話す前に、少し前提を共有しておきたい。
◉著者印税
みなさんは印税をご存知だろうか。日本大百科全書(小学館)によると、印税とは「著作権の存在する著作物の発行にあたって、出版者から著作権者に支払われる一定率の著作権使用料」とある。通常、出版物の価格の5~10%を著者が受け取るのだが、印税率と呼ばれるこのパーセントが高いほど、著者はありがたい。しかし、よっぽど著名な作家さんでない限り、通常はMAXでも10%。僕の場合、初版7%で重版がかかってようやく10%なんてパターンが多い。実績のない著者の場合、初版は無印税ということだってあるのだ。出版社目線で考えたときにそういうった状況も仕方がないと思えなくもないのだが、僕はこの仕組みにずっと違和感を感じている。
それは「出版」というものがつまり「出版事業」であり「出版ビジネス」の略語であるということに他ならないからだ。その観点からみれば、印税とは、出版事業に著者や編集者が参画したその報酬の分配だ。しかし多くの著者はよいもわるいも、そんなふうに事業参画する思いで出版を決めているだろうか?
少なくとも僕は事業として儲かりそうだからという理由で本を出してはいない。しかしそれが真に利他的な思いからなのか、そもそも儲からないという構造上の問題からくるものなのか。正直なところ、そのどちらもであるというのが、僕の現在地だ。
◉本作りの構造
編集者や校閲者、ブックデザイナーにイラストレーターなど、本作りを支えるクリエイターは著者以外にもたくさんいらっしゃる。そして、それらお一人お一人は本作りにまったく欠かすことができない。しかしここでは敢えて構造をシンプルにするべく、出版事業に関わる《組織》だけを抜き出してみる。
【著者】→《出版社》→《取次会社》→《書店》→【読者】
上述したデザイナーさんや校閲者さんの仕事は《出版社》のなかに含まれていると考えてくれてもよいかと思うが、【著者】と【読者】の間にある組織としては、おおまかに《出版社》《取次会社》《書店》の3者ということになるだろう。この3者は、まさに出版事業というビジネスの渦中にいる。しかし、源泉にいる【著者】の思いの原点は、より多くの【読者】に届けたいというシンプルな願いであることに間違いはないはずだ。
そう考えると【著者】→【読者】という関係が、まるで織姫と彦星のごとく、ビジネスという天の川で大きく隔てられてしまっているようにさえ見えてくる。しかし、これまでの出版業界を支えてくれたのが、《出版社》《取次会社》《書店》という、三者の存在であることは紛れも無い事実だ。念の為、言葉にしておくけれど、僕は《出版社》《取次会社》《書店》のみなさんが不要だとは思わない。みなさんそれぞれに、とても重要で意義深い仕事をしてくれているのは言うまでもない。その上で、僕はある実験をしてみたいのだ。
◉初動という花火
ここで考えてもらいたいのが、【著者】と【読者】の間に、上述の《出版社》《取次会社》《書店》の3者だけでは、取りこぼしてしまっている存在があるということ。その大きなものが、「図書館」と「古書店」だ。特に古書店に関しては《書店》に含まれているのでは、と考える人も多いかと思うが、出版事業を考えた時、古書店はここには含むことができない。それは既存の出版ビジネスが「新刊本ビジネス」だからだ。
書店では毎日のように、新刊発売の花火が上がり、小さな祭りが繰り返される。そんななかで多くの書店員さんが、日々、荷開けと品出しに明け暮れている。それゆえ、どんな本であっても、最も本が売れやすいタイミングは発売日から数日なのは間違いない。「初動」と呼ばれる発売直後の売れ行き如何で、売り場におけるその本の存在感が決まる。だからどの出版物も「初動」を掴むために必死だ。その切実なプロモーションが打ち上げ花火となって、さらに消費者の初動の熱を高める。そのサイクルが現在の出版事業の当たり前だ。だけど当たり前はきっと変えられる。
◉書籍流通の限界
これが雑誌になれば、より一層そのサイクルは早まる。僕がはじめてつくった全国流通の雑誌『Re:S(りす)』(2006〜2009年/リトルモア)。この『Re:S』を創刊したとき、書店で平積みされている有名な雑誌と僕がつくる雑誌の最も大きな違いが刷り部数であることを知った。全国津々浦々にある書店の平台の上に、表紙が見えるように高々と積み上げられる有名雑誌は、その物量ゆえに僕たちの目につく。そうやって書店で目立つ冊数を印刷するには当然お金がかかる。それをまかなっているのが広告だ。結果、多くの雑誌は、いかに買ってもらえるか以上に、どれだけ広告が取れるかということに注視する。あまりに不毛なその構造に僕は疑問を持った。書店での場所を確保するべく、実売4万部の雑誌を8万部刷る。そんなことがいまもなお現実に行われている。その結果、多くの雑誌が新しい号の登場とともに、消費期限が過ぎた食品のごとく返品され断裁される。僕はそこにハッキリと違和感を感じたし、その気持ちはいまも強くなるばかりだ。実は、取次会社の存在はこういった雑誌が決まった発売日に全国の書店に一斉に並ぶということにおいて、とても重要な役割を果たしていた。雑誌がかつてのように売れなくなったこの時代で、取次や流通の仕組みの変化が問われるのは必然だ。
本来、雑誌流通を基盤としていた出版流通の仕組みは、結果的に書籍においても新刊にしか価値をみないとする現状の出版事業につながっている。そしてそれこそが現状に対する僕の大きな違和感の正体だ。
◉図書館も古書店も肯定したい
出しては売って、出しては売って、というサイクルのなかに否が応でも身を置かれてしまうのが、いまの出版の仕組み。僕はこれを変化させたい。子供の頃、漫画雑誌をみんなで回し読みしたように、一冊の本がいろんな人の手にわたってなお幸福な仕組みをつくりたい。書籍にとってもっとも大事なのはその中身(コンテンツ)だ。それこそ図書館やカフェなどで多くの人に読まれることを、本来は著者も編集者も心から喜びたいはずだ。しかしいまの仕組みでは、そういった本と読者が出合う場面の増加が、出版社や著作者に対するフィーの増加にはつながらない。そもそも印税は、新刊本にしかかからないから、僕の本がいくらブックオフで売れようと、どれだけ図書館で借りられようと、僕に還元されはしない。それをわかっているからこそ、出版は社会へのギフトだと、僕は言う。それはピュアな利他性と悔しさの入り混じったとても複雑な感情の吐露だ。
柳宗悦、河井寛次郎とともに民藝運動を推進した陶芸家、濱田庄司の代表的な技法の一つに、柄杓に掬った釉薬を大皿に描き流す「流し掛け」というものがある。時間にしてわずが15秒の釉掛で出来上がる器の高額さについて聞かれた濱田は、「これは15秒プラス60年と見たらどうか」と答えたという。まさに、ものづくりにかかる時間にはその人の人生そのものが含まれている。本も同じだ。仮にひと月で書き上げた原稿だとしても、その向こうにはプラス著者の人生が含まれている。それを儚く消える花火のような売り方で消費してしまうのはあまりにつらい。
◉変化のためのたった一つの方法
《書店》のなかに古書店を含められないと先述したのはそういう理由からだ。けれど僕は、古書店も図書館も、社会に必要だし、心底ありがたいと思っている。言わずもがな【著者】と【読者】の接点を増やしてくれる、とても大切な存在だからだ。そこで僕は、読者がその本とどこで出会っても、著者がこの世に存在する限り、著者に直接的に感謝を伝えられる方法が一つあることに気づた。しかしそれは著者にとってとてもリスキーだし、先述の
「それを支える社会の醸成が必要だと僕はずっと思い続けている。」
という言葉のとおり、社会変化を必要とする。けれどそれでも僕はチャレンジしたい。その方法とは、
著者が印税を出版社から貰わないことだ。
その代わりに、これまでの印税にあたる、著者の報酬を、読者から直接いただく。それは具体的にどういうことか、以下に記す。
◉CultiPay(カルチペイ)
僕は新著『取り戻す旅』の巻末に、一つのQRコードを印刷した。そのQRコードを僕は『CultiPay(カルチペイ)』と名付けた。culture(文化)の語源でもあるcultivate(耕す)とpay(支払う)が合わさった造語。QRコード(耕土)を通して、受け手の気持ちが作り手の創作の芽を育むことをイメージしている。
このQRコードは、日本初のデジタルバンク「みんなの銀行」の口座につながる。みんなの銀行どうしなら、QRをスキャンした方の口座情報が自動入力され、簡単に気持ちを贈ってもらえる。それこそPayPayとかじゃダメなのかと思われるだろうが、PayPay送金用のQRコードはマネーロンダリング防止などのために時限付きコードとなっているので、印刷することができない。しかしみんなの銀行は、唯一、銀行の口座がQR化されている。実は昨年僕が、みんなの銀行のアンバサダーになったのは、このためだ。
258名の応募のなかから選んでもらえたのは、まったくの奇跡だが、僕はどうしてもこのチャレンジをカタチにするのに、みんなの銀行の頭取に直接相談をしたかった。アンバサダーになったことをきっかけに、何度か福岡に足を運び、この試みについても相談させてもらい、僕のこのチャレンジを応援していただけることを確認した。金融に関する法律はどんどん変化しているというし、僕のこの試みがなんらかの法に触れたりして、ご迷惑をおかけしてはいけないと思ったからだ。
◉QRコード
著作権は権利の主張として大切なものだけれど、その多くは「権利」というよりは、ひっくり返った「利権」の話だ。それは詰まるところ、囲い込みの話で。そのことが、いまの社会を窮屈にしている。そもそも、囲い込みの精神を解放したとき、みるみるうちにそのチカラを発揮して、世界標準となったものの代表が「QRコード」だ。
デンソーウェーブという会社がトヨタの生産管理技術の一環として開発した「QR」は、その権利を解放したことから世界中のバーコード戦争を勝ち抜いた。権利の解放が、結果、業界のトップシェアを獲得したという教訓は、ひとつの真理なのだと思う。ゆえにきっとこの「CultiPay」の仕組みに「QRコード」という技術が欠かせないのも必然なのだ。
この数年で、これほどまでに「QRコード」が浸透したのは言わずもがな「QR決済」のおかげだ。PayPayのような決済システムの普及が老若男女のキャッシュレス化を進め、いまや、うちの高齢の母親でもQR決済を使うようになった。そういったテクノロジーの進化に後押しされながら、この仕組みがどんどん醸成されていけばよいなと思う。
◉文学フリマ東京にぜひ。
そんな世界初の仕組みがセットされたこの一冊は、ひょっとすると出版界にとって、とんでもなく重要な一冊になるかもしれないし、ならないかもしれない。そういった意味でも、このチャレンジグな一冊をぜひ買ってもらえたら嬉しい。本体価格は1500円(+税)。文学フリマ出店以降は、6冊以上を直接買取していただけるお店に一冊1000円で卸そうと思うので、うちでも扱いたいと言う方は、ぜひメールを。
ちなみに、ネットでの販売はいまはまだ検討中なので、考えが整理でき次第、またご報告しようと思う。なのでまずは、とにかく手に入れてみたいという方は、文学フリマ東京に来て欲しい。当然ながら、僕が自ら手売りするので、ぜひ。
ここから先は
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?