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みんなって誰だ?

 Re:S=Re:Standard あたらしい〝ふつう〟を提案する。この言葉を旗印に編集活動を続けて、15年以上が経つ。飽き性な僕が、それだけの期間、興味を失うことなく、いやそれどころか、これからもずっとこの言葉を追いかけて歩んでいこうと思えるのは、〝ふつう〟という言葉がよい意味で、いつまで経ってもフワフワと掴めない言葉のままだからだ。

〝ふつう〟ってなんだ?

 この問いに向き合い続けるうちに、〝ふつう〟と思っていたものが、ちょっと俯瞰で見てみたり、裏から見たり、ズラしてみたり、重ねてみたり、しばらく置いてみたりすることで〝ふつう〟でなくなることを知った。そしてこれらの行為こそがまさに「編集」そのもので、だからこそ僕はずっと編集者を続けているのだと思う。

 多様性という言葉が行き交う世の中になって、ようやく「その〝ふつう〟は誰にとっての〝ふつう〟なの?」という大前提が認識されるようになってきたけれど、それでもいまだに横暴な〝ふつう〟が散見されるのは変わらない。

 「これがふつうだから」
 「そんなのふつうじゃん」

 自身の旗印として、長年〝ふつう〟という言葉をキーボードに打ち続けてきた僕だけれど、だからこそ、こういった暴力性をはらむ〝ふつう〟を最も禁じてきたようにも思う。

 小学生の頃、僕はずっと、筆箱ではなく筆を持って学校に通っていた。筆袋とはなんだ? と思われるだろうが、ようはただの巾着だ。母親が作ってくれたポパイ(というアニメのキャラクター)柄の巾着に鉛筆やら消しゴムやらを入れて筆箱代わりに使っていた。別に筆箱を買ってもらえないほど貧乏だったわけではない。僕は子供の頃から、巾着ほどアクセスがスムーズな容れ物は他にないんじゃないかと思っていて、謎に巾着を愛していた。だから、まわりの友達の多くが缶ペンといわれる、ガチャガチャうるさいスチール製の筆箱を使うなかで、ひとり、巾着に鉛筆を入れて学校に持参していた。

 だけど、そもそも学校という場所は管理されることの訓練所みたいな場所だから、ちょっと人と違うことをするだけで、すぐいじめられたりする。それでも当時、なんとか僕が大きないじめを受けることなく居られたのは、関西という土壌のなかで「なんかおもろいやつ」という枠の中に偶然入ったからだろう。そういう意味でも、ガチガチの管理社会においてキャラクターというのはずいぶん身を救うものだなと思う。規則を破るとか、暴れるとか、盗んだバイクで走り出すとか、そういう不良的なはみ出し方は興味がないというか、そんな無闇な勇ましさは一ミリも持っていなかった僕は、一方で、あくまでも決められた枠内で、違ったことをすることには人一倍興味があった。それこそシール集めが流行ったときには、サンキストオレンジとかに貼ってあるシールがめちゃくちゃいいとか言って、下敷きや鉛筆に貼って友達に見せて変人扱いされたことも今思い出した。

 僕たちの時代は特にそうだった気がするけれど、学校生活でもっとも耳にする言葉ランキングのかなり上位に〝ふつう〟という言葉はあったんじゃないかと思う。学校や組織における〝ふつう〟とは、単なる多数派ということでしかない。目立たないということにエネルギーを使うということは「みんな・・・はどうしてるか?」ということに対するアンテナの感度を上げることで、それが市場経済で言えばマーケティングってことだろうから、それはそれで結果役立っているのだろうか。興味ないけど。

 多数派という意味での〝ふつう〟を意識して生きていこうとするのは、自ら誰かに管理されやすい状態に身を置きにいくようなものだ。だから、さまざまな地域にお邪魔してプロジェクトをすすめることが多い僕は、とにかくまわりを気にする人が多いことが気になって仕方がない。しかしそれは社会で生きていく上でとても大切なことだから、わるいこととは思わない。ただ、そこにある〝ふつう〟はあくまでもその地域や組織における〝ふつう〟なんだよ。ということは伝えたいと思う。〝ふつう〟は一歩はみだすだけで、見事に〝ふつう〟ではなくなる。そんなことを体感してもらうための仕組みを考えるのも、よそもの編集者の僕の大切な役割だ。

 とにかく〝ふつう〟は多様で変化し続けるもの。という認識を当たり前にもつことが、管理されることに慣れきった日本人にとってとても大事なことだと思う。まわりを気にすることに長けたところで、他人と比べて、優位に思ったり凹んだり、いちいち一喜一憂して心が騒がしいだけだ。そんな相対価値よりも、まわりの多様さを受け入れることに長けていく方がいい。そんな絶対価値をこそ気にした方が、人生の幸福度が上がるのは間違いない。

 だから「みんなはどうしてるだろう?」とあなたが思うとき、その「みんな」が大きな集団ではなく、個人の集まりとして見えるようになればいいなと思う。以前、一回り歳下の後輩編集者が編集長をつとめるウェブマガジンで記事を書かせてもらったときに、そのサイトにおける彼らのルールのひとつにとても共感した。そのルールとは「〝みんな〟という言葉を使わない」というもの。〝みんな〟は、〝ふつう〟と同じで、考えれば考えるほど安易に使えない言葉だ。明確な特定を避けて責任をあいまいにする、ある種の逃げワードと言ってもいい。だから彼らは、つい〝みんな〟と書きそうになるとき〝あなた〟と書き換えるのだという。その方がストレートに読者に届くのだと。そのことを僕はとてもよく理解できた。

 「みんなそうしているよ」そんな意味で僕は〝ふつう〟を使わない。だから僕は〝みんな〟という言葉に対して人よりも敏感なほうだと思う。そんな僕だから、最初にその名前を聞いたとき、どこか半信半疑でいたのが #みんなの銀行 というデジタルバンクだ。

 かつて、よく似た名前の政党があったこともその原因かもしれないけれど、僕は「みんなの銀行」における〝みんな〟が何を指しているのか? が気になって思わず検索した。そして頭取の永吉健一さんのインタビューに行き着いた。

 そこで僕はずいぶんと驚いてしまった。みんなの銀行の〝みんな〟は、ある種のステイトメントであるだけでなく、実際的な機能の表現でもあったからだ。

 最初こそ、よくあるネットバンクの一つだと思っていた僕だけれど、まずはそのシンプルで美しく直感的なUIデザインを前にして、明らかに他のネットバンクとの違いを感じた。その理由は簡単で、「みんなの銀行」は、そもそもリアル店舗を持たないスマホだけの銀行だったからだ。そうやってターゲットを限定していくことで、銀行が本来持っているさまざまな機能をも潔く引き算している。だからこそ、こんなにもシンプルなデザインが生まれるのかと驚いた。このことを既存の銀行がやろうとしたら、上層部から相当なお咎めがくるに違いない。

 実は「みんなの銀行」は、ふくおかファイナンシャルグループという、福岡銀行を中心とした九州の金融機関の集合体に端を発している。にもかかわらず、そのシステム基盤を敢えて活用せず、まったくのゼロからシステム構築をしていることの意味がとても大きい。それゆえ、従来のインターネットバンクサービスであるネットバンクと区別するために、自らをデジタルバンクと表現している。

 ふくおかファイナンシャルグループとの関係性から、福岡や九州のアイデンティティを感じそうになる「みんなの銀行」だけれど、リアル店舗を持たないということは、特定の地域に依ることなく運営されているということ。スマホさえあれば、さまざまな地域の人たちが(現時点では日本国籍が必要だけれど)さまざまな場所で気軽に口座開設できる。その仕組みを体現した言葉が「みんなの銀行」でもあるのだ。

 このことを端的に現しているもののひとつが支店名だろう。あらゆる「価値」を仲介する架け橋でありたいという想いから、みんなの銀行の支店名は、世界中にある7つの橋の名前をとっている。ちなみに僕は、学生時代に観たレオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』が好きだったことを思い出してポンヌフ支店を選んだ。

 つまり「みんなの銀行」は、「みんなの銀行でありたい」という、ある種陳腐に聞こえてしまう願いを超えて、すでに「みんなの銀行である」ことを仕組みとして実装している。それこそRe:S=Re:Standard あたらしい〝ふつう〟の銀行の登場だと僕はワクワクした。

 ここで唐突ながら発表すると、僕は今日をもって #みんなの銀行アンバサダー に就任した。

みんなの銀行紹介コード zpmnTLNv

 頭取のインタビューを拝見し、さらには、『イノベーションのジレンマからの脱出』という、みんなの銀行創立までの経緯について書かれた書籍も拝読。みんなの銀行における〝みんな〟が、最大公約数的な塊を指すのではなく、多様で考え方も価値観も違う個性の集合体を指しているのだと感じたことが僕を突き動かした。

 銀行という組織は、数ある組織のなかでも特に、法令上のルールやしきたりが多く、はみだそうにもはみ出せない組織の代表だと言える。頭取のインタビューを拝読しながら、だからこそ既存の仕組みを使わず、ゼロから構築することにこだわり、良い意味で八方美人にならない銀行をつくろうとしたことがわかった。僕は編集には、ビジョンをカタチにするための魔法のようなチカラがあると思っている。僕が信じる編集のチカラをここに注げないだろうかと思った。

 だけどもちろん、僕と「みんなの銀行」の間にはなんの接点もない。書籍以上のリアルを知るために、どうやって「みんなの銀行」にアプローチすればいいだろう。僕が感じた「みんなの銀行」の挑戦の意義を編集者としてどのように伝えていけばよいだろう。そんなふうに考えていた時に知ったのが「第1期みんなの銀行アンバサダー」の募集開始の案内だった。

 今回258名もの応募があるなかで10名のアンバサダーが選ばれたという。50歳近くなって、選ばれるより選ぶことの方が多くなるなかで、そんな狭き門をくぐれたことの意味はなんなのかと、自分で応募しておきながらあらためて考えている。おそらくアンバサダーに選ばれたみなさんのなかで、僕ほどお金に疎い人間はいないかもしれない。だからこそ、僕は敢えて「みんなの銀行」の〝みんな〟という言葉に立ち向かってみようと思う。それが〝ふつう〟に向き合ってきたローカル編集者の、僕の役割のように感じている。

〝みんな〟とは、いわばそれぞれということだ。

 実は僕はいま、とても明確なとある出版プロジェクトを温めていて、そこに「みんなの銀行」の仕組みが欠かせないと考えている。この挑戦を、頭取はじめ、みんなの銀行のみなさんにぶつけてみることから、まずは始めてみたい。その過程についても、今後このnoteで公開していこうと思う。

 このnoteを機に #みんなの銀行 に興味をもってくれた方は、以下の紹介コードを使って、ぜひ口座開設してみてほしい。まずは体感することから!

みんなの銀行 紹介コード zpmnTLNv

https://www.minna-no-ginko.com/special/ambassador/


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