見出し画像

親友のような恋人、恋人のような親友

「この人が見ている世界を一緒に見たい」


そう思えるか否かが、私が誰かを好きになる時の判断軸だ。



元来興味の幅が狭い私。ベッドで思い切り寝られて、好きな音楽や本に触れることができたら、その他には何も望まないというマインドになっている私。そんな私が、新たな世界を見ようと思うのはよっぽどのことなのだ。




昔の恋人たちのことを思い出す。「彼」というフィルターを通して知った世界のことを思い出す。

サッカー。アニメ。映画。バスケ。バイク。ベース。ハイブランド。煙草。メロコアパンク。コーヒー。家電。村上春樹。一眼レフ。


「好きな人」という存在を媒介して、知らない世界に行くことができる。

その点で、恋愛や恋人は尊いものだ。







「この人が見ている世界を一緒に見たい」

そう思うことが恋愛の出発点なのだとしたら、私から彼女に向けられた感情は一体何だったのか。



私と彼女が最初に出会ったのは、中学3年生の時だった。

互いを警戒しあっていた初対面から、日を重ねるにつれて私と彼女はそれなりに言葉を交わすようになった。


私たちの関係性が変わったのは、あの晴れた昼下がりだったと思う。



会話に飽きた私たちは、何をするでもなく学内を歩き続けていた。

そのうち、ひとつの空間に辿り着いた。

天窓から光が差し込む中庭。そこに並べられた観葉植物のひとつひとつに、私たちは丁寧に感想を付け加えながら、愛でて回った。


それにもすぐに飽きた。



観葉植物が並べられた中庭のまんなかに、椅子を置いた。私が座り、私の膝の上に彼女が座った。

彼女の腹に腕を巻いて、彼女はそこに手を重ねた。


わたしたちはひとつになった。


そうしてそのまま、私たちは言葉を交わすことなく陽の光を浴び続けた。1時間くらい、そうしていた。休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴って、私と彼女はばらばらになった。



椅子に座って、無言のまま、まっすぐに世界を捉え続けたあの1時間。どれだけ言葉を埋め尽くして自分自身を表象させて、彼女のことを知ろうとしたって、あの1時間にかないっこない。何もせず、何も喋らず、ただそこにいるだけが許されたあの1時間。「ありのままのあなたでいてね」という言葉なんか、暴力だろと思ってる。けど。何もしない、何もできない、何も話さないそのままの私を彼女は受け入れてくれた。


この時間を境に、私と彼女の関係性は「友情」だとか「親友」「大切な人」とか、そういうありきたりな言葉で括ってしまうことが勿体無い、と思えるものへと変化した。



「彼女からは、この世界はどう見えているんだろう」


他者に興味を持てなかった15歳の自分は、そう思った。



彼女というフィルターを通して知った世界のことを思い出す。

ネイル。美容。抹茶。肯定すること。

彼女は捉え所のない人だった。結局、そんなに多くのことを知ることはできなかった。
それでも。



「この子が私の恋人になっても良いかもしれない」

次第に、そう思うようになった。同性が恋愛対象にならない私にとって、そう思えた相手は後にも先にも彼女だけ。



高校に進学してすぐに、彼女は生涯を通して大切にできるような相手を見つけた。幸せそうな彼女を見て、彼女への淡い恋心、みたいなものはどこかに行った。


それから5年半が経った今も、彼女は恋人と幸せそうにしている。


「私がひとりと付き合い続けてる間に、あんた何回変わったよ?」



絶望的に恋愛が下手くそな私のこれまでを振り返り、彼女が笑う。

あなたより、魅力的な人に出会えてないだけだよ。と心の隅で思う。



「私、いつも親友みたいな人を好きになるの」

そう大学の友人が話しているのを聞いて、彼女のことを思い出した。「親友」ということばで括るのが勿体無いな、と思いながらもそのことばで括るのがいちばんしっくりきた。これまでの人生ではっきりと「親友」と言えるのは、彼女ともうひとり(米津玄師と田中樹が好き)くらい(大学の友人各位、私には君たちを「親友」と呼ぶ自信がないのです‥呼んでも良いの?)。


親友のような恋人、とはどんなものだろうか。

ちょっとよくわからないけど。


彼女は、私にとって「恋人のような親友」なんじゃないか。今ならそう思う。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?