時代感覚と、私と、あなた。
この時代。向き合う相手はいつもいつも、「みんな」になりがちだ。もっと分かりやすく言えば、人が気にしているのは大抵「世間」になりがち、だということ。誰といても、どこで何をしていても、自分はいつも誰かに厳しく見張られているような。そんな人生に野暮ったさを感じるような。「誰にどう思われるだろう、」という礼儀にも似た赤信号をいつも自分に抱えるような。そういう性質になりがちなんだ。
というのもやはり、それには「SNS」が拍車をかけているのだと私は思う。(きっと皆んなももう気づいてる)
暮らしにトキメキを見つけたり、子供のように心を燃やしたり、夢を掴みたいというエネルギーが浮かんだ時、真っ先に思い出してしまうのはいつも、強烈な僻みや嫉妬、ひどい言葉を使い合うSNSの残像だったりしてね。なんやかんや、たったワンタップで一喜一憂できてしまうのが人間だから。ね。
だからあの、「Ado」は顔を出さないことを選んだんだろうし、ある意味「匿名」って盾なのだろうと。この時代、武器を持たずとも自分を守る盾はいつも肌身離さずがスタンダードなのだろう。それでも「Ado」みたいのはラッキーなパターンで。見事な才能が開花したがこの先、炎上や評価を怖がり自分を出せないZ世代のことを思ったら、未来は容易く悲観できた。才能がある人はほんとうに勿体無いよね。そういう感じが続いたらいつか芸能人は皆んな、匿名で顔を隠してテレビに出るようになるかもしれないし。誰かの才能や芸術は世に出る前に挫けて亡くなったりして。これからもっと世界はつまらなくなるだろう。
まぁ話は逸れたけど。つまりは「SNS」というのはいわば第三次戦争みたいなもので。この時代を生きる者たちが器用で、臆病になってしまうのも仕方ないような気がしたんだ。それにそうやって弱気になっていたら私だっていつでもあっけなくやられるだろうし、尻尾を丸くして怯えたまま生きることになるだろう。
だが、
私はそんなのごめんだ。
だから考えた。向き合う相手を見失わないように決めたんだ。私が相手にしたいのは「時代」ではなく、「世間」でもなく、「みんな」でもなく、「あなた」。そこのあなたなんだ。あなたに決めて、あなたに向けていつも書いているよ。
私は私の世界から「みんな」と言うフレーズを追い出して生きる。私には、「マリエ」と言う名前があるように、画面の前でこれを読むあなたにもきっとお名前があるから。ね。
集団じゃない。みんながみんな、孤立した先でひとりぼっちで生きていく。その上で繋がりたいと思ったんだ。伝え合いたいと思ったんだ。何に惹かれ、何を求めて、何を許し、何を作り上げていくのか。とか、ね。
私は自分を救ってくれたのが人間だと知っているし、人間のことをとても信じている。そう言うピュアな時間のことも信じてる。
そうして生きていきます。